月と蛙

W杯がはじまるともういけない。
毎晩やっていることといえば、食事の用意・後かたづけとサッカー観戦だけ(入浴もする)。
新聞はW杯関連記事を再読・三読・未読し、サッカー関連の雑誌を繰り返し眺めている。
本など悠長に読んでいる暇がない。というか、睡眠不足で頭がまともに働かない。
俄もしくは筋金入りのサポーターの浮かれっぷり(とくに韓国)を報道で目にするにつけ、それよりもテポドンの方がもっとずっと大事だろう(やしきたかじん)と私もそう思うのだが、部屋にこもって黙読ならぬ沈視しているよりは、はるかに「健康的」かもしれない。
それにしても、ワールドカップ・サッカーにこれほど惹きつけられるのは一体なぜなのだろう。
サッカーのボールは切り落とされた首(「ころがる首」=生命力の象徴=杯ならぬ胚)であるとか、国別対抗戦は戦争の代替であるとか、ゴールは一つの奇蹟(神の降臨、脱自=エクスタシーの瞬間)であるとか、いずれにせよ人の心を深層から揺さぶる何か(太古的なもの)がそこに潜んでいるからに違いない。
でも、それだけでは何もいったことにならない。
メディアの商業主義が演出した一時的な熱狂にすぎないのかもしれない。


中継、録画でいくつもの試合を観戦しているうち、しだいに毎晩つくって食べている料理の味わいとだぶってくる。
大量に仕入れたじゃがいもとたまねぎをベースに、手近な野菜とベーコンやソーセージ状の豚肉を適当に刻んで放り込み、スープの素と一緒にぐつぐつ煮込むだけの初心者料理。
もうたいがい飽き飽きしているのだが、このいたって原始的な味わいがサッカーの試合を観ている時、観終わった時の、興奮と静寂、苦痛と鎮魂の感情と不思議と似通っているのだ。
個々の食材(選手)のかたちが崩れ、しだいに一つのスープ状のものに煮詰まっていく。
すべてが終わった時、そこにはただ「スピリット」とでも表現するしかない、かたちのないものだけが残っている。


中沢新一さんが「壺に描かれた蛙──考古学と民俗学を結ぶもの」(『芸術人類学』)に、次のように書いている。
料理の火の発見という「技術革新」を通じて、人類社会は自然から文化へと移行した。
火を使って「焼くこと」と「煮ること」。
前者が自然から文化への移行をストレートに表現しているのに対し、後者はそこにふたたび自然への逆行を導入している。
縄文文化は、「煮ること」に重きを置いて独特な土器を発達させてきた。
土器は粘土と水を混ぜ合わせて製作される。
煮炊きに利用されることで、食材(非連続な個体)をどろどろの液体に溶け込ませてしまう。


《こうして土器は成形時と調理の際と、二度にわたって水と深い関わりをもつことになる。ところで神話的思考においては。水はしばしば火と対立しあうものとして思考されている。火を使った調理は「焼くこと」では、湿ったものから乾いたものへ、連続しているものから非連続なものへ、液体状のものから固体状のものへの変化をつくりだすのに、「煮ること」はこの過程をふたたびもとの状態へ逆行させようとする。こまかく切り刻まれた材料は土器の中で、水気をたっぷり含んだ、どろどろの液体とひとつに溶け込んでいく。
 このように、土器を使った煮炊き料理は、火の使用に関してあきらかに両義的な性質をしめすことになる。「煮ること」を社会的コードに移して隠喩的に思考すると、Endogamy 的な行為につながっていく。これは、小さな家族関係の中に閉ざされた状態で食事やセックスをする傾向であり、家族関係や母子関係の外に広がる大きな社会関係に広がっていこうとする Exogamy 的な行為と対立しあう。「焼くこと」が Exogamy 的であるならば、「煮ること」はあきらかに Endogamy 的なのだ。》(『芸術人類学』324頁)


ここから中沢氏は、縄文中期の土器にあらわれた月と蛙のイメージの解析へと進んでいく。
蛙=大地性。月=周期性。
──もう家に帰って食事の準備を始めないと、早朝のイングランドスウェーデン戦の録画を観て、ポルトガル対メキシコ戦をリアルタイムで観戦するのに間に合わない。
以下、駆け足で「要点」のみ記す。
蛙は重力に縛られた選手たちであり、月は切り落とされた首(サッカーボール)であり、土器はピッチである。
何が言いたかったのかというと、サッカーの試合は、(料理と同じように)感覚と抽象のこねあわせ、観念の蒸留と概念の精錬の場であるということ。
そして、サッカーとは何かについても「焼くこと」と「煮ること」と同様の二つの見方があるのではないかということ。