考える人──『私家版・ユダヤ文化論』(1)

前回(7月29日)の「最近の読書事情」で、日々だらしなく読み齧り読み流すばかりで定着するものがなにもないと書いた。
それは厳然たる真実なのだが(ほとんど下痢状態なのだが)、そうしたなかでも若干の例外はある。
内田樹著『私家版・ユダヤ文化論』はまちがいなくその筆頭で、そこに綴られた高級漫談(話術)の鮮やかさと理路(ロジック)の冴えは、ふやけきった脳髄にびんびんと刺激を送り込んでくれた。


それにしてもこの書物は難解である。
圧巻ともいえる「終章」をロジカル・ハイとともに一気呵成に読み終えて、はて、私はこの本を読み終えることでいったい何を得たのだろうか、その点がはなはだ心許なく、曖昧で要領を得ないのである。
通読によって得た個々の知識や知見や創見を一つ一つ数え上げることはたやすいし、それらはいずれも平明でわかりやすく、かつ内田節が冴え渡った刺激的なものなのだが、しかしそれらを束ね重ねあわせ、かつ一冊の書物としての結構を踏まえた上で総括して、内田氏はこの本を書くことでほんとうは何を言いたかったのか、を自分なりの言葉で整理し要約して語ることができない。
それは私の頭が朦朧としていたからかもしれないが、そうではないような気がする。
本書の難解さは、そこで問われている問題そのものの本質に起因するのかもしれない。
『私家版・ユダヤ文化論』には、これを一冊の書物として、つまりそれぞれの章や節に書かれた事柄を一続きの論述として、一個の物語(理説)として編成し整序する土俵が欠けている。
というか、内田氏はそうした土俵(言語と言っていいかもしれない)の起源、あるいはそもそも「考える」とはどういう事態だったのかという問題を、もはや想像することすらかなわぬ「考えない」こととの対比で「考える」という不可能事に挑んでいる。
だから本書は、その構成において完璧に破綻している。
ユダヤ人」をめぐる認識論(第一章)と存在論(終章)という位相を異にする論考が、あたかも前提、結論の関係であるかのように澄まし顔で同居している。
その間に「ユダヤ人」という概念とそれへの欲望の近代日本(第二章)、そしてフランス(第三章)における使用例・発現例が概観されるが、それらはその前後の原理的かつ「古代」的な論考を媒介するものとしてはいかにも弱く、あたかも通りすがりに紹介された挿話群のように読めてしまう。
まるで異なる書物の異なる章を任意に切り出し、ある(邪悪な?)意図をもってカバラか聖書のように編集したもののようだ。
それを内田氏は意図的にやっている(たぶん)。
「私家版」とはそういう意味だったのではないかと思う。


内田氏は「新書版のためのあとがき」に、「私のユダヤ文化論の基本的立場は「ユダヤ人問題について正しく語れるような言語を非ユダヤ人は持っていない」というものである」(240頁)と書いている。
こんな告白を最後の最後になって記すのは実に人が悪い(まあ、丹念に読めば、そういう趣旨のことは本編にちゃんと書いてある)。
それはともかく、ここで注目したいのは、なぜ「新書版のための」とわざわざ書かれているのかということだ。
雑誌連載時に書いた「あとがき」風の文章(終章の7節「結語」のあとに置かれた8節「ある出会い」)に加えて、といった趣旨なのかもしれないが、そうではない。
新書版以外の版が想定されているからに違いない。
それはこれから書かれるものかもしれないし、すでに著されているのかもしれない。
あるいは、もう一つの私家版として私の脳髄の中に巣くっているのかもしれない。