アラベスクとアナグラム

 論文のタイトルに惹かれて、宗像衣子さんの「宙空のアナグラム・宙空のアラベスク──マラルメ『骰子一擲』序論・〈形象の変容と思惟的像〉」を読んだ。(『トランスフォーメーションの記号論』(記号学研究10)[東海大学出版会:1990.05.10]所収)
 秋山澄夫訳の「骰子一擲いかで偶然を破棄すべき」をパソコンの画面に立ち上げて、ときおり眺めながら読んだ。
 何が書かれているのかほとんどわからなかった。それなのに、なぜだかとてもおもしろかった。(この感覚は、井筒豊子の和歌論三部作に似たところがある。)


《詩人は宇宙にアラベスクを視、アナグラムを聴く。そのアラベスクとは、精神の視点が開き示す、宇宙の線描としての意味的図柄である、思惟的アラベスクに他ならず、またそのアナグラムとは、精神のいわば聴点が開き示す、宇宙の谺としての音による意味連関である、思惟的アナグラムに他ならない。》(242頁上段)


 この論文の最終場面にでてくる文章中の「思惟的アラベスクアナグラム」という語は、次の文中の「思惟的像」につながっている。


マラルメの空間は、思念的時間と協働している。イマージュ・形象の全体は、情動性の充実した一つの思惟的像である。音と統辞と意味の多様的統一体としての別の時空の形成によってのみ表現される、可能態としての質の具現であり、精神的なイコン・思惟的像である。》(240頁上段)


(ついでに書いておくと、「思惟=恣意」という音韻的つながりの線も引かれている。「恣意的な離散記号を思惟により融合化しようとする指向のうちで行われる、不定性や架構性によって支えられた仮象性の定位は、精神と宇宙との律動的気脈の相互浸透による融和行為に呼応する。」(239頁上段))


 アナグラムについては、丸山圭三郎著『ソシュールの思想』の「記号学と神話・アナグラム研究」の項に「ソシュールマラルメの言語思想的類縁性」に関して言及が見られる、との注記がある。
 アラベスクについての注記はないが、司馬遼太郎井筒俊彦の追悼文で、夫人が井筒眞穂の筆名で『新潮』57巻10号(昭和35年10月)に発表した短編小説のタイトルが「アラベスク」であることに触れ、「井筒俊彦という稀代の哲学者の博捜と構築と表現を考えるとき、その鮮明さと流麗さ、さらには高度の形而上性とリズム感が、アラベスクということばにふさわしいようにおもえる」と書いている。(「アラベスク──井筒俊彦を悼む」、中公文庫『十六の話』61頁) 


 宗像衣子さんには、『マラルメ詩学──抒情と抽象をめぐる近現代の芸術家たち』と『ことばとイマージュの交歓──フランスと日本の詩情』の二冊の著書がある。とくに『交歓』は読んでおきたい。