メカニカルな感覚、時間の劇。

 吉本隆明の詩を読みたいと思っている。
 その直接のきっかけは、中沢新一編著『吉本隆明の経済学』の第二部「経済学の詩的構造」を立ち読みしたこと。
 いわく、人間の心の仕組みの奥には「詩的構造」と名づけるしかない根源的な活動があって、いっさいの心的現象はそこから立ち現れてくる、云々。
 この本は結局、立ち読みですますことができなくなり、もう一冊の吉本本(宇田亮一著『吉本隆明 “心”から読み解く思想』)とあわせて購入した。


 詩を読みたいと思うなら、さっさと読めばいい。それはそうなのだが、私は詩の読み方を知らない。
 吉本隆明の詩なら学生時代にたくさん読んだ。でもいくら読んでも読んだ気がしなかった。(高校生の頃の中原中也立原道造のようには読めなかった。)
 吉増剛造吉岡実、吉田一穂に長田弘、最近では西脇順三郎と、気になった詩人の詩集を手にし(時には本人の朗読の場に身をさらし)、義務を課すようにして読んだこともあった。それでも、詩を読んだと確信できたためしがなかった。
 数年前に、西洋音楽の聴き方や日本画の鑑賞の仕方を知らないことを知り、映画の見方を知らないことは最近になって思い知った。能・歌舞伎の見方や詩の読み方はいまだに知らない。
 日本の詩人が書いた詩は、ふだん苦もなく使っている日本語で書かれているのだから、なにも特別な技術をつかわなくても読めるはず。どこかでそう思い込んでいるのだと思う。
 詩を読むためには、技術を習得することが必要だ。どの分野であれ、技術を独学で習得することはできない。だから、詩を読むには師が必要だ。


 師は身近なところにいた。


 神戸の詩人・富哲世さんのことは、以前このブログに書いたことがある。(2005年10月07日「歌の心・富哲世さんの詩」
 富さんとはその後、神戸の「カルメン」というスペイン料理の店で食事をしたことがあるが、それがいつだったかよく覚えていない。
 そのカルメンの大橋愛由等さんが、「まろうど通信」の記事(2012年08月05日)に、神戸の詩誌『Melange』の読書会での「富哲世/吉本詩を読む」の様子を紹介をしている。


「富哲世/吉本詩を読む01」
「富哲世/吉本詩を読む02」
「富哲世/吉本詩を読む03」
「富哲世/吉本詩を読む04」


 いまその1を聴き終えたところ。富さんはそこで「固有時との対話」の序にあたる詩をとりあげている。
メカニカルに組成されたわたしの感覚には湿気を嫌ふ冬の風のしたが適してゐた。そしてわたしの無償な時間の劇は物象の微かな役割に担はれながら確かに歩みはじめるのである…と信じられた。
 そして、そこから吉本詩を読むためのてがかりを六つひきだしている。
1.私の感覚はメカニカルである。
2.湿潤さを嫌うということ。
3.風の重要性。
4.時間の劇。
5.物象性が微かであり、かつ時間の劇の担い手であること。
6.信。