『ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記』訳者解説

レヴィナスは嫌いだし怖いが、ウィトゲンシュタインには昔から惹かれつづけてきた。
実際に会って話をすると、レヴィナスは慈愛と親愛に満ちた師であり、ウィトゲンシュタインは峻厳で冷酷な友なのかもしれない。
もちろんそんな想像にはなんの意味もない。


ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記 1930-1932/1936-1937』巻末の訳者解説を読んだ。
鬼界彰夫「隠された意味へ」。
力のこもった、でもこれは本当の話だろうかと目を疑うほどに判りやすい叙述だった。
『論考』という自己の過去/原罪(偽善)に正対し、自らの死と再生を通じて自らを浄め離し、それによって『探求』という清らかな次元を実現できる新たな精神へ。
いわば旧約(論理哲学論考)から新約(哲学探究)へといたる、特異な夢の到来によって「パンクチュエート」された困難な精神の運動の記録。

それは、別の角度から見れば、ウィトゲンシュタインの精神が「信仰」という特別な状態へと入ってゆくこと、あるいはそうした状態が彼の精神に訪れることであった。それは彼の宗教の歩みにほかならなかった。そして『哲学探究』という記念碑的作品は、この宗教の歩みの結果としてのみ生み出されたのである。これこそが日記が我々に与える最大の驚きである。(296頁)

ウィトゲンシュタインにとって、聖書の教えは究極的に「神が世界を創造した」と「キリストは自らの命を犠牲にして人間を罪から救い出した」の二つに収斂する。
前者の教えからは「神はいつでもお前からすべてを要求できる」「神がお前に生の賜物を与えてくださるよう誓い願え!」(1937年2月16日の日記)という態度(信仰)がもたらされる。
後者の教えからはまずキリストにならい完全な者として生きること、すなわち「自らの此の世での命と生活を犠牲として捧げる倫理的責務を負う」(302頁)という厳しく恐ろしい解釈がもたらされる。
だが1937年3月26日、ウィトゲンシュタインの思考に劇的な転換が生じ、新しい態度(信仰)が訪れる。
「それは救おうとする者から、救われる者への転換である」(304頁)。

私は自分のあるがままにおいて、自分のあるがままに照らされ、啓かれている。私が言いたいのは、私の宗教はそのあるがままにおいて、そのあるがままに照らされ、啓かれているということだ。(1937年3月26日の日記)

鬼界氏の読解がどれほどの正統性を持つのか。
それは生の資料(日記)に実地にあたった上であらためて確認するしかない。
ここでは、鬼界氏がウィトゲンシュタインのテキスト分析に用いた「スレッド・シークエンス法」を取り上げる。
ウィトゲンシュタインはこう考えた』の第一部「ウィトゲンシュタインのテキストの特徴と読み方」に、大要次のように書かれている。
ウィトゲンシュタインのテキストは独特の内的構造を持っていて、通常とは異なる読み方を読者に要求する。
その一つが「スレッド・シークエンス法」である。
ウィトゲンシュタインが哲学的思考を展開し、その結果を手稿ノートに書きつけてゆくとき、相互に密接に関連する二つないし三つの主題(たとえば「独我論」と「私的言語」、「数学の基礎」と「規則」)を同時に考え、それぞれに関する思考を交互に書きつけてゆくのが習慣だった。
いま交互に登場する主題をスレッド(思考の糸)と呼び、A、Bで表示するなら、ウィトゲンシュタインのテキストの構造は「a1-a2-a3-b1-b2-a4-a5-a6-b3-b4-b5- ……」となる。
これをそれぞれの主題の本性に即して読解するためには、まず「a1-a2-a3-a4-a5-a6- ……」と「b1-b2-b3-b4-b5- ……」の二本の繊維に分け、その上でそれぞれを理解しさらに統合するる必要がある。
こうした作業の起点になるのが、テキストをパンクチュエートすること、つまり句読点(切れ目)を入れて、「a1-a2-a3」「a4-a5-a6」「b1-b2-b3」「b4-b5」のシークエンスに区切ることである。
これだけだとどうということもないが、そしてこれ以上のことを補うことはできないのだけれど、この「スレッド・シークエンス法」という方法には、常に複数の書物を同時並行的に読み進める習慣をもつ(だから不連続な)私にとってとても他人事とは思えない「懐かしさ」がある。