『全体性と無限(上)』序文

熊野純彦訳のレヴィナス『全体性と無限(上)──外部性をめぐる試論』(岩波文庫)を買って20頁ほどの序文を読んだ。
内田樹さんの『他者と死者』(24頁)に、レヴィナスラカンはわざと分かりにくく書く「大人」であると書いてある。
また、彼らが量産する「邪悪なまでに難解なテクスト」が狙っているのは、「あなたはそのような難解なテクストを書くことによって、何が言いたいのか?」という「子どもの問い」へと読者を誘導することである、とも。
ここで云われる「子ども」は「追う者」のこと、つまり弟子である。
私は別にレヴィナスの弟子になんかなるつもりはないが、レヴィナスのテクストを読むということはレヴィナスの弟子になることである、そういう構造をレヴィナスの「邪悪な」テクストが持っているのだとしたら仕方がない。
腹をくくって弟子入りするしかない。それが嫌なら読まずに放置することだ。


これまでレヴィナスについて書かれた書物や解説の類をいくらかは読んできたが、レヴィナスその人の著書は『実存から実存者へ』(西谷修訳,講談社学術文庫)の序章と『レヴィナス・コレクション』(合田正人訳,ちくま学芸文庫)に収められた文章のうち『エティカ』の書評その他二、三篇を読んだ程度で、『存在の彼方へ』(合田正人訳,講談社学術文庫)にいたっては訳者あとがきを眺めたまま頁すら繰っていない。
強烈に惹かれているくせに、私はレヴィナスが嫌いなのだ。
どこか押しつけがましくて嫌なのだ。というより、怖がっている。
斎藤慶典さんは『レヴィナス──無起源からの思考』(35頁)で、「人間」の起源と誕生の「時」に関わる「太古の」哲学者と呼んでいる。
その思考の「太古性」が私を怯えさせる。
読まず嫌いはそろそろやめて、怖いモノ見たさで思い切って読んでみるか。
幸い、序文を読むかぎりその難解さは邪悪とまでは思わない。
分からないところはいくらでもあるけれど、あまり気にならない。
それどころか、「諸存在は、かくして、叙事詩のかたちをまとってあらわれるものであ」(15頁)るとか、「倫理とは一箇の光学なのだ」(19頁,32頁)とか、「その冒険は結局は想像的なもの、オデュッセウスのみちゆきのようにわが家に帰還するものなのである」(27-28頁)といった、訳が分からぬままでもグッとくるフレーズが散見される。
存在の実現と啓示という本質的な両義性をもつ「生起(production)」の概念(25頁)などは蠱惑的だ。
謎を謎のまま頭に刻みつけて先へ進むことができそうな気がする。
問題は、いつ読むかだ。