『物質と記憶』(第16回)

物質と記憶』。第三章の四節「過去と現在の関係」を読む。
このあたりまで来ると、なにも一節ずつ律儀に読まずとも一気呵成に最後まで突入できそうなものだが、それをやるとたんなる黙読にすぎず、独り読書会の意義を失う。
では独り読書会の意義は何かと問われると困るが、ベルクソンの議論の細部をリテラルに祖述しながら、それがじわじわと躰と脳髄に浸透していく過程を克明にたどり、違和であれ親和であれ意識しつつ反芻することによってこそ見えてくるものがあろうと思うのだ。
もちろん細部に沈潜することで全体の眺望を見失うこともあるだろう。
もう少し今の作業をつづけ、一度機会を見て俯瞰のための小休止をとることにしよう。


本節では記憶力の二つの形態の関係が図示される。
第一の記憶力についての説明をベルクソンの言葉で拾うと、有機体の中に定着したもの、私たちを現在の状況に順応させ、私たちがこうむる作用をおのずから延長させ多少とも適合した反応にまで発展させるさせるもの、記憶力というより習慣。
習慣が組織した感覚=運動系の総体からなる身体の記憶力。
ほとんど瞬間的な記憶力。その行動に一般性の刻印を捺す(衝動の人の・もしくは児童の)まったく運動的な記憶力。
第二のそれについては、たんなる習慣ではなくて本当の記憶力、意識とひろがりをひとしくするもの、私たちのあらゆる状態を保持し順序どおり配列しながら、各事実に場所をあたえ日付をしるし本当に決定的な過去の中で動くもの。
個別的なもののみを視界にとらえるまったく観想的な(夢想家の・もしくは大人の)記憶力。
この二つの記憶力は深く異なったものだが、密接につながって一つになろうとする。
私の身体と私がよぶこのまったく特殊なイマージュ、すなわち一瞬ごとに一般的生成の横断面をなすもの、受けては返される運動の通過点、私に作用する事物と私が働きかける事物との連結線、一言でいえば感覚=運動的現象の座においてである。
かくして、かの有名な平面と円錐体の隠喩でもって両者の関係が図示されるわけだ。
私の身体のイマージュ(S)を含み、それに作用を及ぼしかつそれからの作用を受けるすべてのイマージュでもって構成される平面P(宇宙にかんする私の現実的表象)。
底面AB(過去に位して不動のまま)を上部に、頂点S(あらゆる瞬間に私の現在をあらわす)を下部にもつ逆円錐SAB。
それらの接点をなすS、不断に前進するSにおいて二つの記憶力が一つになる。

習慣が組織した感覚=運動系の総体からなる身体の記憶力は、ほとんど瞬間的な記憶力なのだけれども、過去の本当の記憶力がその基盤をつとめている。両者はばらばらな二つのものではなく、第一のものは、すでにのべたように、第二のものによって経験の動く平面にさしこまれる動的先端にほかならないから、この二つの機能が互いに支持を与え合うことは当然である。じっさい一方では、過去の記憶力は感覚=運動的諸機能にたいし、それらを導いて任務につかせ運動的反応を経験の教示する方向におもむかせうるすべての記憶を呈示する。近接と類似による連合は、まさしくそこにおいて成立するのだ。しかし他方では、感覚=運動機構は無力な、すなわち無意識な記憶にたいし、身体を獲得して物質化する手段、つまりは現在となる手段を提供する。じっさい、ある記憶が意識に再現するためには、それは純粋記憶の高みから、行動の遂行を見るまさにその地点にまで、下りてくることを必要とする。換言すれば現在こそ、記憶の応答する呼びかけの出発点であり、現在の行動の感覚=運動的要素こそ、記憶が熱気を借りて活力を与えられる場所なのである。(172-173頁)

それでは過去の記憶はいったいどこに保存されるというのか。
それが身体(脳)ではないことは、すでに第一部の議論から明らかだ。
いまはただ、溺死や縊死から蘇生した人の報告にあるように、過去の記憶は「もっとも微細な事情にいたるまで、起こったとおりのそのままの順序で」保持されているという事実を受け容れよう。

それ自身イマージュであるこの身体は、数多のイマージュの一部をなすものであるから、数多のイマージュを貯蔵することはできない。だからこそ、過去の知覚はおろか現在の知覚でも、脳に限局しようとする企ては空想的なのだ。それらの知覚が脳の中にあるのではない。脳こそそれらの中にあるのだ。(171頁)