無尽講

臨床つながりの話題から。
臨床仏教カウンセリング協会」というのがある。
定款を見ると第四条に「本会は、「臨仏カ」に関連して、次の活動を行う」と書いてある。
「臨仏カ」とは面妖だが仏の力の臨在を思わせる力強い言葉だと感心していると、これは「臨床仏教カウンセリング」の略称で「力」はカタカナの「カ」だった。
そのホームページを見ていると、NHKの「ニュース10」(2004年9月20日放送)で紹介された「健康長寿・日本一の秘密」が掲載されていた。
山梨大学医学部の山縣然太朗教授は、「どうして山梨県健康寿命が長いのか」アンケート調査によって分析研究した。その結果、興味深い結果がみられた。……」

昨晩、その山縣教授を招いた私的な講演会「山梨県の長寿の秘訣」が神戸であった。
主催者から「面白いよ」と声をかけられていたので参加した。
講演には間に合わなかったが、質疑応答と引き続きの懇親会に顔を出して深夜までつきあった。
仕事でやつれていたけれど、午前様で帰宅した時分にはすっかり元気になっていた。


山梨には無尽(講)という互助組織の伝統が残っている。
無尽を楽しむ人のADL(生活活動能力)が高いことが疫学的に立証されたのだという。
山縣教授が用意されたレジュメ(パワーポイント原稿)にはこう書いてあった。

・金銭の融通を目的として、一定の期日ごとに講の成員があらかじめ定めた額の掛金を出し、所定の金額の取得者を抽選や入れ札などできめ、全員が取得し終わるまで続けること。鎌倉時代に成立し江戸時代に普及した。現在でも、農村を中心として広く行われている。無尽。頼母子講
・山梨では「定期的な会合、食事会、飲み会」として、現在でも盛んにおこなわれている。
・沖縄の「模合(もあい)」など全国に残っている。
・「無尽」は、山梨県で今も盛んに行われる人付き合いの形態であり、社会的ネットワークのひとつの形である。仲間と健康の話をしたり、世の中の話をしたりして無尽を楽しむことも健康寿命延伸に寄与すると期待される。

山梨では一人で複数の無尽に入っていることはざらなのだそうだ。
気心の知れた仲間内の集まり、単なる飲み会との違いはいまひとつ実感として判らないが(でも昨晩のような飲み会が無尽の楽しさなのだとしたら、それが健康寿命につながることは体感で判る)、社会的にも経済的にも認知されているらしい。
「今日は無尽ですから早く帰ります」といったことが官民の組織で通用するし、たとえば甲府湯村温泉のホームページなどを見ると、「無尽会幹事さん」向けに「無尽会専門プラン まわる湯村の厄除け無尽手形」という年間予約のコースが用意されている。
会場からの質問に答えて山縣教授が、「無尽の基本は閉鎖性なんです、何年暮らしてもよそ者(山縣教授は山口県出身)にはなかなか声がかからない」と発言をされたのが印象に残った。
懇親会で、メールは便利だがチェックに2時間もかかると「なんだこれは」と思うといった話題になったとき、おおよそ次のようなことを話した。


すでに人間関係ができている人とのメールのやりとりはとても重宝だ。
それは無尽の閉鎖性とも関係する。
ネットの世界で認証システムが課題になっているように、社会関係でも完全にオープンなシステムはとても危険だ。
そこで必要なのは承認システムではないか。
マズローの欲求五段階説では最後の自己実現欲求がよく(皮相に)とりあげられるが、実はその一つ前の承認欲求の方が重要なのではないか。
(これは太田肇さんの『認められたい!──がぜん、人をやる気にさせる承認パワー』の受け売り。
余談ながら、この承認の問題をドイツ観念論に遡って考えると面白い。)
承認欲求は相互性をもっているはずで、他者を承認したいという欲求もある。
同郷のよしみであれなんであれ、人は偶然の一致にかこつけて他者を承認(信用)したがっている。
それが、閉鎖性をもった社会がその閉鎖性を守りながら他者を受け容れる際の口実、方便になる。
閉じつつ開く仕掛けになっている。
閉じつつ開いているのは躰も同じこと。
この中間性、偶然性がネットワークの本質なのではないか。
閉じつつ(偶然を奇貨として)開き、開きつつ(承認のルールを守って)閉じる中間性。