臨床哲学

臨床哲学という語を最初に使ったのが誰なのか知らない。
そもそもの発端は中村雄二郎さんが提唱した「臨床の知」あたりではないかと思うのだが、よく知らない。
外国語にあるのかどうかも知らない。
私が知るかぎり、養老孟司さんにそのものずばりの書名の著書がある。
大阪大学の鷲田清一さんのところに "clinical philosophy" の訳語をふった研究室がある。
木村敏さんは自分の仕事をそう呼んでいる。
浜渦辰二「報告:臨床人間学の試み」にはこう書いてある。

この時期[大阪大学大学院文学研究科で倫理学専攻が「臨床哲学専攻」に改称されたことをさす]以降、他にも、臨床社会学、臨床文化人類学、臨床政治学、臨床経済学、臨床法学、臨床歴史学というように、「臨床」という語を広義に使う用法が広まっていった。しかし、以上挙げたもののいくつかは、養老孟司命名によるものであるが、養老の『臨床哲学』(哲学書房、1997年)は、「哲学を横から見てときどき何か言いたくなる」という関心から、「それぞれの哲学者をとって、調べてみたい」「臨床哲学というのは、哲学の具体的な応用であると同時に、哲学者の臨床分析でもある」という主旨の書であり、本稿の脈絡からははずれる。それとともに私たちは、右のような「臨床」概念のインフレに組みするものではない。

養老孟司さんの臨床諸学に関する論考が収められた『毒にも薬にもなる話』には、「臨床時間学」「臨床生物学的歴史学」「臨床中国学」なる語も出てくる。
私はさらに臨床文学とか臨床言語学といった語を使って、臨床概念のインフレに与したいと思う。
というのも、「対話・面接・インタヴュー・交流・調査・フィールドワークといった相互的な対面関係のなかで、それまでに学んだことを現場で磨きながら、そのなかからいろいろと学び取ることに比重を置いた研究と教育」という浜渦論文にある臨床の定義に賛同するからだ。


いや、そういうことを書きたかったわけではない。
臨床という語がインフレを招いたのには、それなりの時代なり思想の背景があるからではないかということを考えたかったのだ。
私はかつて、実験理性批判という語を考案したことがある。
実験(室)という語が思考や社会のあり方を根底的に規定する格別に重要なメタファーであった(現にある)時代を想定することができるのではないかと睨んでのことである。
修道院や庵という語もそう言う意味では魅力的だ。
それと同じ意味合いで臨床の概念を考えることができるのではないか。
そういう趣旨だったのだが、今日のところは力尽きた。