『俳句という遊び』

小林恭二『俳句という遊び──句会の空間』(岩波新書)を買って「はじめに」とプロローグとエピローグ「句会とは何か」、そして「あとがき」を読んだ。
「俳句を媒介にして、日常とりえないような高度で玄妙なコミュニケーション(=遊び)をとれるような座、そういうのをまっとうな句会という。」
この「大人の遊び」は、往々にして「お遊び」に堕す。
現に近代日本における俳句の活字化、結社誌の普及とともに、句座の場は際限ない権威主義、点数主義へと走った。

 そもそも句会というのは、元来ごく普通のコミュニケーション手段であった。そう、かつて茶会や歌合せがそうであったように。
 ちなみに我が国において文芸が、作家による一方通行的なマニフェストとして発達せず、複数の連衆によるコミュニケーションの媒体として発達したことは、研究に値するテーマである。皮肉に言えば我が国の近代は、そのようにして発達した芸術が、西欧的な「芸術家対大衆」というかたちに組み込まれて、大袈裟に言えば解体してゆく過程であったと捉えることもでよう。(248-249頁)

本編を読むのが待ち遠しい。
91年初刊の第16刷。
「ご要望にお応えして/アンコール復刊 春爛漫の甲州にて/流派を超えた真剣勝負!」と帯にある。