今年最初に読んだ本──『生物から見た世界』

その2.ユクスキュル/クリサート『生物から見た世界──見えない世界の絵本』(日高敏隆他訳,岩波文庫)。


生物は機械ではない。主体である。
生きた主体なしには空間も時間もありえない。
たとえばダニにとっての瞬間(最短の時間の断片)は十八年であり、人間にとってのそれは十八分の一秒である。
生物は「環世界 Umwelt」という閉じたシャボン玉によって永遠に取り囲まれている。
純粋な自然の設計(プラン)によって支配されている。
すべてを包括する世界空間とはフィクションである。
環世界は主観的現実にほかならない(カントの学説の自然科学的活用)。
下等動物の知覚世界・作用世界から形と運動という高度な知覚世界を経て人間の環世界へ。
ユクスキュルの叙述は、本来見えない世界を鮮やかに、そして平明に解き明かす。


実に豊饒な思想的広がりをもった古典的名著である。
とりわけ12章「魔術的環世界」と13章「同じ主体が異なる環世界で客体となる場合」が素晴らしい。
聞き囓りのアフォーダンスの理論や、今読み進めているベルクソンの思索にダイレクトにつながっている。
ハイデガーの「世界内存在」への隠蔽された回路は、木田元氏の本でつとに紹介されている。
本邦の今西進化論も想起させられる。
なによりファーブル(昆虫)やダーウィン(ミミズ)や養老孟司(人体)の観察につながっているのが楽しい。
科学することの歓びがあふれている。
前二者は本書にその名が出てくる。
養老孟司の名は、本書と同時に『解剖学教室へようこそ』を読んだがゆえの連想だが、本書末尾の次の文章は養老人間科学における「実在(感)」や「自然」の定義そのものだ。

 このような例[天文学者や深海研究者や化学者や原子物理学者や感覚生理学者や音波研究者や音楽研究者の環世界がそれぞれに異なること]はいくらでもある。行動主義心理学者の見る自然という環世界においては肉体が精神を生み、心理学者の世界では精神が肉体をつくる。
 自然研究者のさまざまな環世界で自然が客体として果たしている役割は、きわめて矛盾に満ちている。それらの客観的な特性をまとめてみようとしたら、生まれるのは混沌ばかりだろう。とはいえこの多様な環世界はすべて、あらゆる環世界に対して永遠に閉ざされたままのある一つのものによって育まれ、支えられている。そのあるものによって生みだされたその世界のすべての背後に、永遠に認識されないままに隠されているのは、自然という主体なのである。