年の初めから読んでいる本──『象られた力』

昨年の暮れ、読み終えた本、読みかけの本、雑誌などを段ボール箱三つに詰め込んで「書庫」に送った。
(「書庫」というのは、高校の頃まで暮らしていた部屋のことで、いまは乱雑にたくさんの書物が埃を被って棲息している。
梱包されたまま数年放置されたままのものもある。
いわば私の「無意識」の場所で、いつかここを整理整頓したいと永年思ってきた。
そのために家を建てようかとさえ考え始めている。)
それでも常備本以外に多くの読み残し本が年を越えて、いつか持ち主に繙かれる日を恨めしげに待っている。
鬱陶しいが、一冊一冊手にとってみると、やっぱり「書庫」送りの刑に処するには忍びない。
計画的に読むことは不得手なので、結局、これまで通り無造作に本箱に平積みになる。
そのうちパニックに襲われて、怒濤の一気読みに突入するかもしれないし、またまた越年の憂き目をみることになるかもしれない。
整頓はされなくても整理された本箱を眺めていると、気分が一新する。
そこで、新しい年をむかえ、読み囓り本(たとえば、年末年始に読破するつもりで結局ほとんど読めなかった『小林秀雄対話集』や『柳田國男文芸論集』)はこの際いったんわきへおいて、新しい本を三冊、同時進行的に読み始めた。
その一つが養老孟司著『無思想の発見』で、この本のことはすでに書いた。
あとの二冊(SFと脳科学の本)について、今日と明日の二日にわけて書く。
書くといっても、いずれも精読モードに入っていて、いつ読み終えるか検討がつかないので、途中報告の域を出ない。


     ※
SF小説はめったに読まない。幻想小説、伝奇小説、ファンタジーもほとんど手にしない。
読めばきっと強く心惹かれ、深く感銘を覚える作品がゴロゴロころがっていることは(実は)よく知っているのに、なぜだか手が出ない。
たぶん余裕がないのだと思う。
なにを焦っているのかは知らないが、今はとても腰を据えて読む時間がないと思い込んでいる。
(きっと読み始めたら、なにもかも放り投げて熱中し我を喪うことが判っているから、それを警戒しているのだと思う。)
それでもSFはたまに読む。
ここ10年ばかりの間に読んだもののなかで心に残っている作品を思いつくままに挙げてみる。
グレッグ・ベアの『ブラッド・ミュージック』と『女王天使』と『火星転移』。
グレッグ・イーガンの『祈りの海』と『しあわせの理由』。
テッド・チャンの『あなたの人生の物語』。
この三人の作品は別格で、ルーディ・ラッカーの『ホワイト・ライト』やオースン・スコット・カードの『消えた少年たち』もかろうじて記憶に残る。
マンガでいえば、星野之宣の『ブルー・ワールド』や自選短編集『MIDWAY』二編、藤子・F・不二雄の「少年SF短編集」と坂口尚の『VER SION』と萩尾望都の『バルバラ異界』など。
(SFはよくできたマンガで読む方が濃い印象が残る。)


この正月明けから久しぶりのSFに没頭している。
読んでいるのは飛浩隆著『象られた力』(ハヤカワ文庫JA)。
表題作のほか「デュオ」「呪界のほとり」「夜と泥の」と4つの中編が収められている。
第26回(2005年)日本SF大賞受賞作。
だから読み始めたわけではなくて、この作品のことは(実は)以前からよく知っていた。
読まなくても凄い作品であることは知っていた。
このあたりの勘は冴えている。
これでも中学、高校の頃まではSFファンだったのだから、勘ははずさない。
まだ表題作の途中までしか進んでいないが、とても面白い。
エンブレム文字、文様文字、要するに図形言語。
その多彩な装飾文様は数十の基本図形に分類される。
それらが組み合わさって、そのひとつひとつが抽象的な意味や寓意、神秘的な役割を担う「エンブレム」を構成する。
それだけではない。情動、感情の動きを人間の内部から吊り出してくる。

 百合洋[ユリウミ]のエンブレムが感情を抽き出す具体的なメカニズムは解明されていない。しかし大ざっぱに言えば、情動は人間が進化の過程で環境に最適化するために作り上げたツール、機械的な仕組みだといえる。人間の内部にセットされたそのツールを、外部から呼び出したり制御したりするコマンド、それを言語の組みあわせで開発しようというのが詩や演劇や小説といった文学システムだったわけだが、感情じたいがそもそも機械的なものなら、もっと別なコマンドを──たとえば図形の形で──開発することも可能なのではないか。図形化したコマンドを光学読み取りさせて、人間というシステムに指令を出す……どこにもふしぎはない。(「象られた力」260頁)

このアイデアがすこぶる面白い。
そういえば、テッド・チャンの『あなたの人生の物語』にも、表題作に出てくる非線形書法体系や「七十二文字」に出てくる真の名辞による単為生殖といった秀逸なアイデアがあった。
カバラの例をもちだすまでもなく、文字や言語をネタにしたSFは無尽蔵に可能なのではないか。
ジェラール・クランという作家に『こだまの谷』があって、この作品には「音響化石」のアイデアが出てくるらしい。
いつか読んでみたいものだ。)
手練れの書き手を思わせる部分と、生まれて初めてSFを書いた人の初々しさを思わせる部分とが同居している。
この文体やストーリーの語り方(たぶんネタは早々と割れる)も、どこか稚拙さとすれすれの懐かしいところがあって、それがかえって新鮮に感じられる。
なかなかいい。
飛浩隆氏の「Shapesphere 「棚ぼたSF作家」飛浩隆のweb録」を覗いてみると、ジョン・ファウルズの『魔術師』が「オールタイム・ベスト」だと書かれていた。
この作品もいつか読みたいと思っていた。)
これまで読んだなかで、これだけは抜き書きしておきたい一文がある。
「「かたち」とは数学的で、抽象的なものである一方、それと同じくらい身体的で肉体的なものだ」(「象られた力」291頁)。
これは深い。