年の初めから読んでいる本──『感じる脳』

心脳問題や脳科学関係の本の在庫がたまっている。
「書庫」送りにできず、もう何年も本箱の棚で順番待ちのまま「熟成」している。
いま目につくものをざっと書き出してみると、ペンローズ『心の影──意識をめぐる未知の科学を探る』をはじめ、チャーマーズ『意識する心──脳と精神の根本理論を求めて』やヴァレラ他『身体化された心──仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』、信原幸弘『心の現代哲学』などは、もうかれこれ5年以上は積ん読状態のまま。
ラマチャンドラン他の『脳のなかの幽霊』もそうで、去年はこれに続編『脳のなかの幽霊、ふたたび──見えてきた心のしくみ』が、さらにカトリーヌ・マラブー『わたしたちの脳をどうするか──ニューロサイエンスとグローバル資本主義』が加わった。
サクサクと読むつもりだった池谷裕二『進化しすぎた脳──中高生と語る[大脳生理学]の最前線』も未読。
(ふと気になって確認すると、同じラインアップを前にも書いている。よほど気にしているのだ。)
そのほかにも、機会さえあれば(積ん読本を読み終えて心の負担が軽くなれば)買っておきたい関連本が山積みで、ダマシオの『生存する脳──心と脳と身体の神秘』や『無意識の脳 自己意識の脳──身体と情動と感情の神秘』など気になる本はやたらと多い。
今年こそはこれらの購入本、未購入本を腰を据えて読み破り、心脳問題に自分なりの決着をつけておきたい。
決着がつかないまでも(つくはずがない)おぼろげな見通しをつけておきたい。
そう思っている。これは毎年思っている。


で、年の初めから、昨年の11月衝動的に買い求めたダマシオの『感じる脳──情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』(ダイヤモンド社)を読み始めた。
例によって、全7章のうちまだ第2章の途中までしか読んでいないが、結構いけそうな気がする。
何よりもスピノザのことが書いてあるのが嬉しい。
情動と感情の本質、心と身体の関係という問題に関して、スピノザは今日の研究者のアイデアを予示している。
ダマシオはそう書いて、次の五つの点を指摘している(30-33頁)。
第一に、スピノザは感情のプロセスと情動のプロセスを区別した。
第二に、スピノザはネガティブな「アフェクトゥス」は理性によって誘発されるより強力でポジティブな「アフェクトゥス」によってのみ制限し無効にすることができるという考え方を示した。
この「アフェクトゥス」、英語で「アフェクト」には「情感」という訳語があてられている(50頁)。
第三に、スピノザは心と身体を同じ実体の平行的属性であるという考え方を示した。
第四に、スピノザは「コナトゥス」の考え方を示した。
第五に、スピノザは善悪、自由と救済という概念をアフェクトゥスや生命調節と関連づけた。
(ただしこの最後の点については、桜井直文氏によって批判されている。)
いまのところ、興味深いのは第一の点で、ダマシオによると、情動(エモーション)は身体という劇場で演じられ、感情(フィーリング)は心という劇場で演じられる(51頁)。

情動とその間連反応は身体と連携しているのに対し、感情は心と連携している。思考がどのように情動を誘発し、身体的情動がどのようにしていわゆる「感情」という種類の思考になるのかを研究すれば、それにより、心と身体という、シームレスに編まれた一個の人間有機体の明らかに異質な二つの側面についての特別な見解がもたらされるはずだ。(25-26頁)

情動は生命調節の基本的なメカニズム(ホメオスタシス機構)の一部である。
感情も生命調節に貢献するが、それはもっと高いレベルにおいてである。
「感情は現在の命の状態を心の言語に翻訳しているのだ」(120-121頁)。
面白いのは、情動を含むホメオスタシス機構が「入れ子式」であるという指摘だ。
ダマシオは「小さなアミーバから人間にいたるまで、すべての生物は命の基本的な問題を〈自動的に〉──つまり、適切な推論をいっさい必要としないで──解決するようになっている装置を備えて生まれてくる」(54頁)と書いている。
そして、代謝調節、基本的反射、免疫反応、苦と快の反応(接近反応や退避反応)、動因と動機(欲求と欲望)、固有の情動という低次(単純)から高次(複雑)にいたる「自動化された生命調節」をひととわたり概観し、そこに「ある興味深い構築プラン」が見えてくると書いている。
「つまり、単純なものを複雑なものの中に「入れ子式」に配置していることだ」(62頁)。
この「入れ子式」つまりフラクタル原理は、養老孟司が「仏教における身体思想」(『日本人の身体観』)で、古い仏教の身体思想の論理的な面を「自己相似」つまり構造的アナロジー観念と指摘したことと響き合っている。
このことは、いつかまたじっくりと考えてみよう。