階層構造と入れ子

年の初めから読んでいる三冊の本(『無思想の発見』『象られた力』『感じる脳』)には共通項があって、それは「感情」である。
そして「感情」は「言葉」にかかわってくる。
この一昨日以来の話題からどんどん離れていくが、気にせず先へ進むことにする。


     ※
昨日、養老孟司が「感覚世界つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する、もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言葉」である」と書いているのを、「この本来交わることのない二つの世界の界面に、というより重ね描きのうちに「言葉」がスーパービーンする」と書き換えた。
感覚世界と概念世界が「重なる」ことに納得がいかなかったからだ。
唯物論でも観念論でもない唯脳論(もしくは脳内現象説)が了解できていれば、こんな書き直しなど無用のことだろう。
それはともかく、この「重ね描き」というのは大森荘蔵のキーワードの一つで、スーパービーン(supervene)という語は、たとえば次のように使われる。
「一般に、下位レベルでの物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に(現代風に言うなら)上位の個物ないし個体特性がスーパービーン(併発)している」(上野修スピノザの世界』116頁)。
ここに出てくる下位レベルや上位という語は、階層を思わせる。
『無思想の発見』で養老孟司は、日本人は階層を考えるのが苦手だという議論を展開している。
目の前のリンゴ二個とナシ二個は感覚世界では「違うものが四つ」となるが、意識(「同じという強いはたらき」)の世界では「同じ」「同じ」を繰り返して世界が単純化される。
リンゴとナシ(二つ)、果物(一つ)、食物(一部)と概念が順送りに大きくなり、果ては数学的帰納法よろしく唯一絶対の神に至る(199頁)。

つまりこの場合、「同じ」で括られる階層を、順次「上に登っていく」のである。「思想なんかない」といって、「思想をただちに現実に変換する」のは、この場合、「下に向かっていく」ことである。現実が下で、思想が上だからである。それもあって、日本人は階層を考えるのが苦手である。現実から思想へ、思想から現実へと、現実と思想の一段階を往復して、それで終わってしまう。(略)


 日本人が階層を考えるのが苦手なのは、文章に関係節がないからだという意見もある。関係節があるということは、一つの文章のなかに階層があることを意味する。主文と副文という表現自体がそれを示している。かなり簡単な文章にもそれがあるということは、アイという語が「実存的主体としての私」を暗黙に導くのと同じように、階層をつぎつぎに積み重ねることが「当然だ」という暗黙の前提を生む。だから西欧ではよく階層構造を示す図を描く。


 生物学の世界でもそれは当然で、リンネの分類体系は典型的な階層構造になっている。(略)この図はじつは「同じ」で次々に括られる概念の世界を示しているわけで、つまり脳ミソのはたらきを示している。それを、
「世界がそうなっている」
といって「外に押し付ける」のが西洋なのである。自分の頭を外に押し付けて、客観的、論理的に世界はできている、それは神様の仕業だという。欧米ではそれを「思想がある」というのである。(200-201頁)

以下、「この「同じ」世界の唯一の解毒剤は、感覚世界である」という議論が続く。
『日本人の身体観』に収められた「仏教における身体思想」では、抽象思考(キリスト教)の「解毒剤としての実証思考」(自然科学)が論じられていた。


このあたりのところは、川崎謙著『神と自然の科学史』と密接にかかわってくる。
それ自体は無意味な世界である「素材の世界」が、思考の枠組み(言語のなかに織り込まれた世界観)のはたらきによって屈折する。
西洋にあっては、ロゴス(言葉=神)の枠組みの中で展開された形而上学と自然科学(自然哲学)によって、「素材の世界」は「ネイチャー」(神の創造物)としての意味と秩序が与えられる。
日本にあっては、道元によって日本的に変容された諸法実相の枠組み(五感にふれる万物にカミの霊性の「活らき」をみる神道的心情)によって、それは「自然」(無上仏)として認識される。
言語の中に織り込まれた世界観。定冠詞や不定冠詞、関係節の有無、その他人称や時制(tempus)、法(modus)、相(aspect)、態(voice)といった文法的概念と思考、認識との関係。
これらのことについては、いずれ別の機会に腰を据えて考えることにしよう。
(できれば、「日本語による哲学制作の可能性」といった問題を、中世の歌論や連歌論、能楽論の類の読解を通じて、それも日本における抽象思考すなわち仏教とからめて考えてみるという、このところしだいに大きな「プロジェクト」に発展しつつあるテーマとともに。)
ここでは、日本において西洋の階層構造に対応するものはなにか、ということを考えてみたい。
それはすなわち「諸法実相」の枠組みであり、ひらたくいえば「入れ子式」の構造なのではないか。
『感じる脳』でダマシオは、生命のホメオスタシス機構は「入れ子式」であると論じていた。
それが、仏教の身体思想が「自己相似」(アナロジー)であるとする養老孟司の議論(「仏教における身体思想」)と響き合っているのではないかということはすでに書いた。
要するに、「AとBの違いや対立が実は同じAと呼ばれるものの中で成り立つ」場合、ここに二度出てくる「A」なるものが実は「同じ次元」に属するという事態をさすのではないか。
漠然とそう考えているのだが、これでは「それのどこが『要するに』なのだ」と問われても仕方がないだろう。(明日に続く。)