養老孟司のロジック(再び)

昨日の話題の続き。
「同じ」と「違う」の一つのヴァージョンに「概念世界」と「感覚世界」がある。
『無思想の発見』での養老孟司の定義によると、「五感で捉えられる世界をここでは感覚世界と呼び、それによって脳内に生じる世界を概念世界と呼ぶ」(120頁)。
この本来交わることのない二つの世界の界面に、というより重ね描きのうちに「言葉」がスーパービーンする。

 感覚世界つまり物体の世界を一つの楕円で示し、概念の世界を、その上に位置する、もう一つの楕円で示す。両者の重なりが「言葉」である。言葉という道具は、この二つの世界を結ぶ。感覚の世界は「違い」によって特徴づけられる。概念の世界は、他方、「同じ」という働きで特徴づけられる。説明はこれで終わりだが、いくらなんでも簡単すぎるかもしれない。ここで大切なことは、言葉自体は「同じであって、違うものだ」ということである。だから言葉は、「違う」という感覚世界と、「同じ」という概念世界を結びつけることができる。(120-121頁)

以下、私がいう「ネコ」とあなたがいう「ネコ」は「違う音」だが、言葉の上では「同じネコという言葉」として把握される。
文字についても事情は等しい、と議論が続く。
さらに、概念世界がなぜ「同じ」なのかというと、「脳の中ではすべては神経細胞の興奮、つまり電気信号だから」と答えるしかない。
これに対して、感覚世界の「違い」は、耳で光は捉えられない、目で音は捉えられない、といった入力器官の違いに基づく。
「そもそも大脳、中脳、後脳という脳の大区分自体が、進化的には嗅覚、視覚、平衡覚(後に聴覚が加わる)に関係している。そこから生じる「違いの」世界を、右に感覚世界と呼んだ」(122頁)と続く。
そして、概念世界にも「違い」はある。
「馬」と「白馬」の違いは概念世界に属し、「あの馬」「この馬」の違いは感覚世界に属する。
中国人が「白馬は馬にあらず」といった区別を持ち出す理由は、中国語に定冠詞、不定冠詞の区別がないからだ、と発展する。
(この中国語の話は、以前「鎌倉傘張り日記」に書いてあった。)


このあたりの議論は、養老節の典型例だと思う。
そもそもからして、概念世界と感覚世界に「重なり」があるというのは乱暴にすぎる。
ミソもクソも一緒くたにした議論である。
いや、ミソとクソはどちらも物質だから混合させられる。
だったら、頭の中のリンゴと目の前のリンゴに「重なり」などあるか。
養老孟司の議論は面白いが、こういうところでいつも躓く。要は「唯脳論」が心底判っていない。
「同じ」と「違う」の系列では、「概念世界」は「思想」に、「感覚世界」は「現実」に対応する。
この「思想」が「現実」とは関係ない、というのが「書かれない思想」(142頁)としての「日本人の思想」であり、言葉で「これだ」と示すことのできない「無思想という思想」(188頁)である。
ところで「唯脳論」の立場からいえば、「思想」も「現実」も「どちらもじつは脳の中じゃないか」(70頁)ということになる。
概念としてのリンゴと感覚としてのリンゴが重なるのはじつは脳の中だ、といっても同じことである。
このあたりでいつも混乱をきたす。
養老孟司がいう「脳」とはいったいなんだ。
池田晶子のように「私は氏が「脳」と言うとき、常に半分は〈魂〉の意で、聞いている」(『魂を考える』)などと言ってみたくなる。

 文科系の人が、こうした言い方を嫌うことはわかっている。
「そもそもお前のいう脳の意味はなんだ」
と訊くからである。意味もクソもない。脳そのものを、われわれは直接に五感で捉えることができる。
「それとあんたの思想は深く関係しているよ」
 私はそういっているだけである。それは身体があなたを成り立たせているというのと、同じことである。(70頁)

ここで大切なことは、「同じ」と「違う」は反対語ではないという指摘だろう。

…感覚で吟味すれば、事物はすべて「違ったもの」である。それを概念化すれば「同じもの」になる。(略)それ[同じであること]を確認するためには、なんらかの「測定」をするしかない。測定は感覚の世界の話である。つまり「同じ」と「違う」は、反対語というより、補完的なのである。(42頁)

これと同じことが「思想」と「現実」、「ある」と「ない」についてもいえる(71頁)。
だとすると、ゼロに「数字のなかの一つの数字」と「とりあえずそこには数がない」の二つの意味があるように(114頁)、養老孟司の議論はつねにダブルミーニングなのである。
だから、脳内の概念世界や思想と、脳に入力される感覚世界や現実という「次元が違う」ものが重なったり、「どちらもじつは脳の中じゃないか」といわれたりする。
そもそも「脳」という言葉自体、五感で捉えられる身体であると同時に、そのはたらき(とはたらきによってもたらされるもの)との二つの意味で使われている。
(これと同じことが、茂木健一郎の「脳内現象説」にもいえる。)
脳を五感で捉えている人(たとえば解剖学者や脳科学者)と、その脳のはたらきによって言葉を紡ぎだしている人(物書き)との「違い」が(電気信号のうちに)ぬりこめられている。
AとBの違いや対立が実は同じAと呼ばれるものの中で成り立つ。
こういう事態を身をもって生きることを「超越論的」態度と呼ぶのだと思うが、それもまた概念世界(文科系)のたわ事であろう。(明日に続く。)