感情の論理

年の初めから読んでいる本、『無思想の発見』(養老孟司)と『象られた力』(飛浩隆)と『感じる脳』(ダマシオ)。
これら三冊の本には共通項がある。
これはいま思いついたことだ。
それは偶然ともいえるし、牽強付会のこじつけとも思えるが、共通項とは「感情」である。
『象られた力』の表題作に出てきた図形文字は、人の情動や感情を抽き出すものだった。
『感じる脳』は、まさしく情動と感情をめぐる神経生物学の書である。


『無思想の発見』の第2章に「同じ」と「違う」をめぐる議論が出てくる。
養老人間科学の基本の部分にあたる議論だと思う。
情報とシステム、抽象思考と実証思考、概念世界と感覚世界、脳(意識)と身体。
いまここに並べた対になる語の前者が「同じ」、後者が「違う」の系列に属する。
『無思想の発見』では、この「同じ」と「違う」をめぐる議論が、養老孟司のかねてからの主張である「個性」論につながっていく。
個性(違い)が刻印されるのは身体であって、意識や心に個性(違い)があるわけではない。
「同じ」だからこそ理解できるのである。
それは「感情」だって同じことだ。

感情は共感である。共感されない感情ほど不気味なものはない。感情はおそらく通常の論理回路を経ないで相手に伝わる。私はそう思っている。怒りも悲しみも笑いも、あきらかに伝染するからである。それならそこにも個性はない。(『無思想の発見』61頁)


感情の論理という言葉がある。
梅原猛の『美と宗教の発見』でも見かけた。
感情は数学的論理や「通常の論理回路」は経由しないかもしれないが、人に伝わる以上、そこに論理を見出すことはできる。
というか、何かが伝わるとき、その何かが伝導される通路、回路のことを論理といえばそれまでで、これは定義の問題である。
調べてみると、ベルクソンの『創造的進化』の2年前にリボーという人の『感情の論理』という本が出版されている。
最近では、ルック・チオンピという人の書いた『感情論理』と『基盤としての情動―フラクタル感情論理の構想』が出ている。
いずれもよく知らないが、そそられる。
とりわけ「フラクタル感情論理」には興味がつのる。
感情システムをオートポイエーシス・システムとして論じたものらしい。
それはともかく、養老孟司のいう「通常の論理回路を経ないで相手に伝わる」共感としての「感情」が「言葉」にかかわってくる。(明日に続く。)