余談二つ

なかなか本題にたどりつかない。
そのうちなにが本題だったかわからなくなる。どうでもよくなっていく。
一昨日、言葉が生まれる場所とその働きをめぐる養老説を引用した。
いわく、感覚世界と概念世界の重なりが言葉である。
言葉は「同じであって、違うものだ」。
だから言葉は「違う」という感覚世界と「同じ」という概念世界を結びつけることができる。
『無思想の発見』には、言葉と意識(「同じという強いはたらき」)を同一視するような記述も出てきて混乱するが、それは養老孟司特有のダブルミーニングもしくは簡略表現なのであって、どちらも正しい。


一つ余談というか懐旧譚を挿入する。
言葉が感覚世界と概念世界の重なりだという指摘を読んで、瀬戸賢一著『レトリックの宇宙』(海鳴社)を想起した。
瀬戸氏はそこでヤ−コブソンによる「換喩」(metonymy)と「隠喩」(metaphor)の比喩の二区分を批判して、大要次のように論じていた。
昔書いた文章を転用する。

ヤ−コブソンによれば換喩的な言説を支えるのは隣接関係であり、隠喩的な言説を支えるのは類似関係である。
 ところで瀬戸賢一はこのヤ−コブソンによる隣接性の用法が「倒錯的」であるとし、これを重層的な現実世界(仮想された世界を含む)の時間的・空間的な隣接関係に基づく転義と概念操作の領域である意味世界での「類−種」の包含関係に基づく転義とに分割し、前者を換喩、後者を提喩(synecdoche)と定義している。瀬戸は「提喩と換喩は、互いに異なった世界に属しているために、直接的な交渉を持つことができず、もし交渉を持つ可能性があるとすれば、隠喩を経由した間接的なものにならざるを得ないのではないか」とし、隠喩が意味世界と現実世界の境界上に存在し両世界の橋渡しをするものであることを指摘している。
 ここで明らかにされたのが「言語表現およびその基礎となる私たちの認識を支える上でもっとも重要な役割を果たす三つ組を構成する」三種の比喩の位置関係(トライアド)であり、瀬戸はさらにパースの記号の三分法と組み合わせて「換喩=指標記号(index)=隣接関係」「提喩=象徴記号(symbol)=包含関係」「隠喩=類似記号(icon)=類似関係」という対応を導き出している。

ここに出てくる「現実世界」が感覚世界に、「意味世界」が概念世界に属する。
パースの三記号のうち「インデックス」は感覚世界、「シンボル」は概念世界、「イコン」はその両世界の境界にそれぞれ属する。
つまり「言葉」とはイコンであるということになる。
瀬戸氏がその後自説をどう展開されたのか、あるいはどう修正・撤回されたのかは知らないが、私はかねてから、そこに第四の記号を付け加えることができるのではないかと考えてきた。
言葉遣いはまだ精錬されていないが、イコンが現実世界と意味世界を具象的でアナロジカルな類似関係に着目してつなぐ働きをもつのだとしたら、これと対になるかたちで、つまり抽象的でアイロニカルな相互否定関係(あるいは逆喩[oxymoron]的関係)に着目してつなぐ記号があるのではないか。
そしてそれは「マスク」とでも名づけられるものなのではないか。
つまり「仮面の記号論」。
この未完の理論が完成したあかつきには、「言葉」とは「イコン=マスク」の複合体である、という命題が成り立つことになる。


パースの名が出てきたついでに、もう一つ余談をはさむ。
中島敦「文字禍」に、単なるバラバラの線の交錯にすぎない文字に音と意味をもたせる「文字の霊」の話が出てくる。
「魂によって統べられない手・脚・頭・爪・腹等が、人間ではないように、一つの霊がこれを統べるのでなくて、どうして単なる線の集合が、音と意味とを有つことが出来ようか。」
ここに出てくる「線」や「音」が感覚世界に、「意味」が概念世界に属する。
前者をラカン想像界に、後者を象徴界に関連させ、そこにパースの記号論をからませた議論が三浦雅士著『出生の秘密』に出てきたはずだが、この本は昨年の暮れ、段ボールに梱包して「書庫」送りにしたままなので詳細を確認できない。(明日に続く。)