言葉とクオリア

言葉は「同じであって、違うものだ」から感覚世界(差異性)と概念世界(同一性)を結びつけることができるという、養老孟司(『無思想の発見』)の指摘は実に刺激的である。
これを読んで三つのことを連想した。


その1.
ダマシオの『感じる脳』で、情動(エモーション)は身体という劇場で演じられ感情(フィーリング)は心という劇場で演じられる、と書いてあった。
仮に「身体という劇場」が感覚世界に、「心という劇場」が概念世界に相当すると考えることができるなら、「情動と感情の重なりが言葉である」という命題の系が成り立つことになる。
なお、飛浩隆の『象られた力』に出てきた「「かたち」とは数学的で、抽象的なものである一方、それと同じくらい身体的で肉体的なものだ」(291頁)という一文が、情動(身体的・肉体的な「かたち」)と感情(数学的・抽象的な「かたち」)の関係と大いにかかわってくる。


その2.
養老孟司は「仏教における身体思想」で、「おそらく宗教の根幹をなすのは、ある種の存在感、とくに自己という「内的世界」と、いわゆる「外部世界」の一致である」と書いている。

考えようによっては、両者ともにわれわれの「内部」にある。ふだんわれわれは、外部世界を、われわれとは異なったものとして、外部に「おしやろう」とする。しかし、外部世界は、われわれの内部に映された世界の像という意味では、同時に内的世界でもある。ある不思議な状況で、両者は渾然一体となるように思われ、そこに世界の統一感が生じる。だから、自己のアートマンが、世界霊魂となるのである。個人の存在を徹底的に揺り動かすような、強い情動がそこに伴う。これはもちろん、宗教家だけに起こるわけではない。デカルトが、疑う自分の存在は疑えないという結論に至ったときも、アルキメデスが風呂から飛び出したときも、状況は似ていたであろう。この存在感は、身体の存在感におそらく還元する。それがインド哲学の紹介を通じて言いたかったことである。(『日本人の身体観』239頁)

この「内的世界」を感覚世界に、「外部世界」を概念世界に置き換えて考えると、宗教の根幹をなす「存在感」(「強い情動」を伴う「世界の統一感」)は言葉によってもたらされる。
あるいは表現される。
「初めに言葉ありき」である。
しかし、この同じ「存在感」(「宗教的感情としての、天地と自己の一体感」252頁)は言葉では表現できない。
「教外別伝 不立文字 以心伝心」である。
言葉によって表現されると同時に言葉では表現できない。
この矛盾を解消するのも言葉である。
(こういう事態を「超越論的」と呼ぶのだと思うが、このことはこれ以上述べない。)
感情=論理と情動=身体の重なりとしての言語によって、言葉で表現されることで初めて存在すると同時に言葉では表現できない存在感=統一感=一体感(強い情動を伴う宗教的感情)が「表現」される。
感覚世界と概念世界が論理と身体の二つの回路でつながるのである。


その3.
言葉が「同じであって、違うものだ」としたら、クオリアもまたそうなのではないか。
茂木健一郎は『脳+心+遺伝子 VS. サムシンググレート』(徳間書房)で次のように語っていた。

…言葉の発話というのは一種の運動だから、脳の領野でいうと運動野の近くの補足運動野とか運動前野というところで司っているんですけど、そこで起きている無意識のプロセスに私の意識の志向性が向かっている。言葉を出すプロセスというのは、だいたいこんな感じのことを出そうかなというところを志向性がコントロールしていて、実際言葉を出すプロセスは無意識なわけです。…言葉の発話の場合には志向性は無意識の発話のプロセスに向かうわけです。このように考えた時に、どうもクオリアというのは私の中心にあるのではなくて、「私」と外の世界との境界にあるっていう感じだと思うんです。むしろ私の中心の方にあるのは、志向性の方であり、その志向性は私の中の無意識にも向かっている。(201-2頁)

ここで述べられたことが、最新の茂木脳理論(「メタ認知ホムンクルス」のモデル)でも通用するのかどうか知らない。
たぶん通用するのだろう。
クオリア」が感覚世界の素材であり、「志向性」が概念世界の基底にあるものであることは見やすい。
この二つの要素が「脳内現象」として重なったものが言語である。
一回性、唯一性、個別性をもった感覚質が、実は同一性、普遍性の成立にとって不可欠であるという逆説。
やや飛躍するが、養老孟司によると「歴史」も「思想」であった。
だとすると、一回性をもった歴史=五感で捉えられる歴史が「思想」として反復するわけである。
物質という「思想」についてもこれと同じことがいえる。
ところで上の発言に、「意識の志向性」が向かう「無意識のプロセス」という語が出てくる。
このあたりのことはベンジャミン・リベットの『マインド・タイム──脳と意識の時間』(下條信輔訳,岩波書店)に関係してくると思うが、これはまた別の話だ。(明日に続く。)