感情と言語

先週の土曜(14日)、「感情の論理」の項の最後次のように書いた。
養老孟司のいう「通常の論理回路を経ないで相手に伝わる」共感としての「感情」が「言葉」にかかわってくる。
そろそろこの話題に決着をつけておこう。


感覚世界と概念世界、情動(身体的・肉体的な「かたち」)と感情(数学的・抽象的な「かたち」)、外部世界と内的世界、クオリアと志向性の重なりとしての「言葉」が「通常の論理回路」を経て相手に伝えるものが「意味」である。
これに対して、共感としての「感情」は直接的に伝染する。
いずれにしても相手に「伝わる」。
これが「言葉」と「感情」の関係である。
そうまとめてしまえば事は簡単だが、それだと面白くもなんともない。
養老孟司(『無思想の発見』)の議論は、これとは違う。
それは「気持ちはじかに伝わる」と題された第八章に出てくる。
「通常の論理回路」など介在せずとも言葉は通じる。
「聞いたとたんに、わかってんじゃないか」というわけだ。
その論拠が「ミラーニューロン」の発見である。
同じ動作を自分がやっても他人がやっても興奮する、一種のモノマネ細胞。
これを意識に応用すると、妙なことになる。
ポルノグラフィーをただ見ているだけなのに、身体が勝手に反応する。
興奮しているのは、じつは意識である(191頁)。

 さらに進んだ議論は、ミラーニューロンの研究がもっと進んでからすべきだと、専門家は考えているであろう。しかし私は素人だから、つい先を考えてしまう。なにもミラーニューロンという神経細胞の存在に話は限らない。単なるニューロン、つまり細胞ではなく、同じようなはたらきを示す神経システムを想定することが、さまざまな機能について、論理的に可能である。現に、ミラーニューロンがあるのだから。
 それなら、
「意識とは、本当に自分だけに留まっているのだろうか」
という疑問が生じる。
 つまり人間の表現は、ひょっとすると相手に直達している可能性ができたといえる。いってみれば、一種のテレパシーではないか。外部に音として表出された言葉を聞き、その音を受け入れて、順次脳のなかで論理的な処理が進んで行く。こうして相手の言い分を理解し、次に自分の意見をいう。そうした順序にしたがって、言葉が使われていると、常識は見なしている。その常識は本当か、という疑いが生じる。いわば、
「聞いたとたんに、わかってんじゃないか」
といってもいい。途中にべつの論理回路を通らなくてもいいかもしれないのである。しかもそのほうが実感に合う。(192-193頁)

こういう議論が好きだ。
論理的に可能で実感に合えば、どんどん先を考えていく。
こういうのを「養老孟司のロジック」という。
抽象思考と実証思考、概念世界と感覚世界が渾然一体となっている。
超越論的経験論、実証的形而上学、その他むつかしい言い方はいろいろあるだろうが、要するに「論理的に可能で実感に合う」議論。


ついでにもう一つ『無思想の発見』から例を引く。
昨日もふれたリベットの実験を踏まえて、自我(意識)は機能(はたらき)であってモノのような実体ではなく機能であることを論証するくだりである。

 念のためだが、あれだけ「個を主張する」アメリカ人でも、神経科学者のなかには、「自我なんてない」と考える人が増えてきている。その根拠は、脳機能が意識に先行する例が知られるようになったからである。たとえば、水を飲もうと「思って」、コップのほうに手を出すとする。じつはそう「思う」〇・五秒前に、「水を飲む」行動に対して、脳はすでに動き出している。いまではそうした測定が可能になった。それなら「水を飲もう」という意識は、「無意識である」脳機能の後追いなのである。意識は「自分が水を飲もうと思ったから」、「その思いがコップに向かって手を出させる」と「思っている」。それは逆である。心理学では、「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」ということがある。常識的な意識は「そんなバカな」と思うだろうが、じつはその「常識的な意識」のほうが、たぶんウソなのである。
(略)
 そういうわけで、自我を主体であり、実体であると考えるのは、所詮は無理である。ただし文化的伝統は抜きがたいもので、欧米人あるいは近代人がどこまでその点で意見を変えるか、私は楽観していない。(40-42頁)

リベットの実験から「自我なんてない」という結論を導き出すことが、はたして論理的に可能で、かつ実感に合うのかどうか。
これはやはり『マインド・タイム』を読んでみなければならないと思う。
このリベットの話は、木村敏著『関係としての自己』の序論にも出てきた。
そこでの議論もずいぶん飛んでいた。
ミラーニューロンの発見とリベットの実験。
この二つのことから、私自身の論理と実感に照らして何が引き出せるか。
これは挑戦してみる価値がある。