『無思想の発見』

そうこうしているうちに、養老孟司著『無思想の発見』を読み終えた。
実はとっくに読み終えていた。
書店をのぞくと、新潮新書から『バカの壁』『死の壁』に続く第三弾『超バカの壁』が平積みになっている。
この「壁三部作」(なのかどうか知らない)はなぜか読む気になれない。
『無思想の発見』は『唯脳論』や『人間科学』に次ぐ養老学の基礎理論書かと思って、だから読んだ。


と、ここまで書いて、ふと気になって過去の「読書日記」を検索してみたら、『死の壁』は読んでいた。
感想文まで書いていた。

バカの壁」の向こうにはロマンがある(12頁)。なぜ人を殺してはいけないのか。人間は自然、つまり高度なシステムである。「そんなもの、殺したら二度と作れねえよ」(22頁)。近代化とは、人間が自分を不死の存在、すなわち情報であると勘違いしたことでもある(32頁)。──以下、養老節が続く。これは『人間科学』の「語り下ろし」版だと思って読んでいたら、あとがきにそう書いてあった。

読んだことを忘れるくらい、養老節が骨身に染みていたわけだ。
というより、結局同じことしか書かれていない。
木の心は木に訊け。
「松のことは松に習え、竹のことは竹に習え」(『三冊子』)。
「やってみなけりゃ、わからない」(『無思想の発見』あとがき)。
養老孟司の「思想」は、宮大工や俳諧師の教えに帰着する。
それを一言で表現すれば「手入れの思想」ということになる。
「意識ですべてはコントロールできない、できるのは手入れすることだけである」(茂木健一郎との共著『スルメを見てイカがわかるか!』185頁)。
『無思想の発見』で次のように書かれているのは、手入れの思想(無思想の思想)の応用である。

中国に対して、なにをするか。靖国参拝の是非なんか議論したって、そんなものは空である。それをめぐって喧嘩したところで、人類の未来に裨益するところは、なにもない。私が思いつくことは一つしかない。北京政府がなにをいおうと、ひたすら中国に木を植える。(略)中国から黄砂が飛んでくるなら、日本は緑をお返しすればいい。無思想であるなら、有思想に対して、感覚世界で対応するしかないはずである。木は思想ではない。(略)
 …木は勝手に育つ。経済成長よりもはるかに確実に「成長する」のである。その確実さ、それが感覚世界のいいところである。共産主義だろうが、資本主義だろうが、木は育つ。(225-227頁)

手入れの思想のもう一つの応用は、「自分で考えろ」ということである。
それを言い換えれば「自分で自分を変えればいい」(233頁)になる。
あるいは、身体に訊け。
考えているのは「意識」ではない。
意識とは「変わらない私」のことであって、そんなものは実体としては点でしかない(35-36頁)。

「私は私、個性のあるこの私」「本当の自分」を声高にいうのは、要するに「実体としての自分に確信がない」だけのことである。「本当の自分」が本当にあると思っていれば、いくら自分を変えたって、なんの心配もない。だって、どうやっても「変えようがない」のが、本当の自分なんだから。それを支えているのは、なにか。身体である。自分の身体はどう変えたって自分で、それ以外に自分なんてありゃしないのである。もう意識の話は繰り返さない。ここまでいっても「意識こそが自分だ」と思うなら、そう思えばいい。ほとんどの人はそう思っているんだから。それでなんだか具合が悪いとブツブツ文句をいわれても、私の知ったことではない。勝手にそう思ってりゃ、いいのである。(234-235頁)


養老孟司は、オレの本がベストセラーになんかなるはずがないと思っている。
本当に判っているのかと訝っている。
だから、あとがきに「この本は売れない。売れないと思う」とわざわざ書かなければならないような本を書いた。
私も、読者は養老孟司がほんとうに言いたいことをちゃんと判って読んでいるのだろうかと疑っている。
「なにを偉そうに、そういうお前は判っているのか」と問われれば(問う人はいないだろうが)、「それがよく判らない」と答えるしかない。
これは理論の書ではない。
理論にかかわることも大いに書かれているし、養老ロジックも駆使されている。
しかし、養老学の基礎理論書として読もうとしても整然と理路をおさえることができないのである。
ここにあるのは養老孟司にとっての存在感とロジック、原理とその応用だけである。
あとがきには、日本のことを大いに心配してこの本を書いたともある。
いらぬお世話だと、人は言うだろう。
「私の知ったことではない。勝手にそう思ってりゃ、いいのである」。
養老孟司はソッポを向いてそう言うだろう。
養老孟司は本書で、いやもうずっと前から、大宅壮一司馬遼太郎山本七平といった本書にもその名が出てくる「無思想」の思想家の系譜に属している。
憂国者の系譜といってもいい。
人は保守思想と呼ぶかもしれない。
保守反動と呼ぶ人もあるだろう。
そんなラベルはどうでもいい。
守るべきものは「変わらない日本」ではないからである。
動かすことが変わることではないからである。