「物のあはれを知る心」と「学問する知性」

 昨日抜き書きした文章の前段で、橋本治さんはこういう趣旨のことを書いていた。
 「敬語という制度」の中で生きている身分制下の中世貴族にとって、その制度から自由になって「自分の生の声」を発することができるのは、和歌の遣り取りを通じてだけだった。そして、そのような「生の声」(和歌)を発する土壌、というか仕掛けが『源氏物語』であった。


 この「自分の生の声」に関係してくるのが「物のあはれ」である。
 本居宣長は「石上私淑言」(巻一)に、「物のあはれ」とは「見る物、きく事、なすわざにふれて、情[ココロ]の深く感ずることをいふ也」と書き、「すべて人の情の、事にふれて感[ウゴ]くは、みな阿波礼也」とした。
 宣長にとっては、「あはれ」も「物のあはれ」も(源氏物語に使われた)「物あはれ」も同じことだった。
 このことについて、小林秀雄は『本居宣長』(十四)に、「言葉は、使われているうちに、言わばおのずから形を転ずるもので、その「いさゝか転じたるいひざま」が、「物のあはれ」なのであり」、「宣長自身にしてみれば、言葉の文法的構造の区別をどうこう言うより、「あはれ」の「いさゝか転じたるいひざま」と言って置けば事は済むと考えていたであろう。実際、そんな事より、言いたい事は、彼の心に溢れていたのである」と書いている。


 また、昨日抜き書きした文章の後段には、『源氏物語』という「自分の生きる世界」をもたなかった本居宣長が、にもかかわらず、『源氏物語』の作中人物達のように「自分の生の声」を発することができるのはどうしてかという謎の答えを求めて、『古事記』へ向かった、といった趣旨のことが書いてあった。
(江戸時代の現実に生きる宣長が、すでにして「物のあはれを知る心」を会得していたのはどうしてか。その謎の答えを求めて『古事記』研究へと向かった。そう言ってもいいと思う。)
 これらに呼応する文章が、『小林秀雄の恵み』の第一章の後半に出てくる。


《我々は近代を特別視している。特別視していることを、意識してさえもいない。
 我々は洋服を着ている。そのことを自然としている。しかし、日本人は近代になって洋服を着始めた。我々は学校教育を当然のように経過している。それもまた近代に始まった。近代とそれ以前とでは、言葉も違う。我々の使う日本語は、近代になって創られた「口語」という新しい日本語だ。だから、近代とそれ以前との間には大きな壁がある――そのことも自然と理解できる。しかし、日本の近代がそれ以前の時代と違うのは、近代の日本が「西洋文明圏の一角」として位置づけられていることである。日本人は、そのことを当然のように理解していて、しかし、日本が自分達を「西洋文明圏の一角」として位置づけようとして「近代」なる時代をスタートさせたことに対しては、理解を曖昧にしている。曖昧にしていてもかまわない最大の理由は、我々が近代に生きているからである。「既に我々は近代に生きている」――その事実がある以上、近代を疑っても仕方がない。おそらく、我々が近代を特別視し、それを当然として疑わない最大の理由は、我々が近代という時代に生きているからだ。だから我々は、近代以前を差別視する。近代と近代以前は一つにならない。
 近代以前の日本に「近代的知性」はない――「近代的知性」は西洋によってもたらされたものとすれば、そういうことになる。近代以前の日本にあるものは、「近代的ではない知性」である。それは普通、「知性には値しないもの」と解される。そうすると我々は、西洋と出合う前は「知性」そのものを持たなかったことになる。ところでしかし、西洋文明と出合って我々が得るものは、「西洋の知識」であり、「西洋に生まれた近代的知性」である。近代を始めた我々は、それを学ぶしかない。それはいいのだが、だとすると、「西洋を学ぶ」を可能にした「学問をする知性」はどこで育ったのか? 西洋と出合って、我々日本人は「学ぶ」を可能にすることが出来た――それを可能にする「学問する知性」は、どこで生まれたのか?
 西洋の知性や知識がいつ日本に入って来たかを確認するのは、難しくない。明治になってからである。それでは、それを摂取しえた日本人は、いつ「学問する知性」を確立したのか? それは、一向にはっきりしない。「はっきりしなくてもかまわない」とさえ、日本人は思っている。なぜならば、「日本の近代的知性は明治になって始まった」と、そのように理解しているからである。近代人は、苦労して西洋を学ぶ。その苦労の前には、「日本人の学問する知性はいつ始まったのか?」を考える必要はないとさえ思ってしまえるのである。しかし、明治に於ける近代のスタート以前、日本に「学問する知性」はあるのである。それを「ない」とすると、日本には独自の思想も哲学も存在しないことになってしまう。そして、日本の近代知性はそれをたやすく「ない」と言って、西洋の思想や哲学を己のルーツとしてしまうのである。しかし、『本居宣長』を書く小林秀雄は、これに真っ向うから異議を唱えた。その異議が真っ向うから唱えられているということを理解しない人は、『本居宣長』になにが書かれているかを理解しない人である。》(50-52頁)


 橋本治さんの文章は、書き写していてとても気持ちがいい。考えていることと文章を綴っていることとの生理と論理と呼吸がぴったり一致している。同じ語彙やフレーズの繰り返しが、冗長とはまったく異なる種類の効果を読み手に引き起こす。
 橋本治さんの文章を要約してしまうと、それは誰の言説かと問いたくなる。要約できないという意味では、詩文か小説の散文のようだが、それとはまったく違う。それを読んでいる時にしか立ち上がらない思考の生の質が、それを読んでいる時にだけ立ち上がっている。
 「近代になって創られた「口語」という新しい日本語」が、もしかすると史上初めて、橋本治という語り手によって思想を語る言葉に精錬されたのではないかと思えるほどだ。


 いや、そういうことを書きたかったわけではない。
 昨日抜き書きした二つの文章と、今日抜き書きした文章が、見事に呼応している。それだけを、繰り返し書いておきたかった。
 ただし、それを、言語という制度から自由になって「自分の生の声」を発する心(物のあはれを知る心)というもののルーツを探った本居宣長、近代(西洋)という制度から自由になって「学問」する知性というもののルーツを探った小林秀雄、口語(話すように語る言葉)という制度から自由になって思考する言葉というもののルーツを探る橋本治(ここで三度使った「制度から自由になる」を「制度の外に出る」と言い換えてもいい)、などと「要約」してみたところで、あまり琴線に触れない。


     ※
 一言、蛇足を加える。敬語という制度から自由になって「生の声」を発するというとき、仮名文字というものの存在を無視することはできないのではないかと私は思う。
 次の文章が、小松英雄著『みそひと文字の抒情詩――古今和歌集の和歌表現を解きほぐす』に出てくる。


《和歌も和文も、事柄の一義的伝達を目的とする文体ではなかったから、ことばの自然なリズムを基本にして、先行する部分と付かず離れずの関係で、思いつくままに、句節がつぎつぎと継ぎ足される連接構文で叙述され、叙述し終わったところが終わりになる。それは、とりもなおさず、口語表現による伝達に共通する汎時的特徴にほかならない。付け加えておくなら、『源氏物語』が連接構文で書かれているのは、思いついたことをつぎつぎと書き足してできあがったからではなく、そういう構文として推敲された結果である。》


 この「連接構文」を可能にしたのが、仮名文字である。橋本治さんの文章は、史上初めて可能になった、仮名文字による思想表現なのかもしれない。(そういえば、橋本治さんに「ひらがな日本美術史」という仕事があった。)