「私的な歌人」としての本居宣長

 橋本治さんは、『小林秀雄の恵み』の第二章に、「私は、本居宣長がその最期において「私的な歌人」という全うの仕方を選んだのだと思っている。」と書いていて、私はそれをとても面白いと思っている。
 小林秀雄が追いかける本居宣長には関心がわかないが、本居宣長を追いかける小林秀は興味深い、といった趣旨のことを橋本治さんは書いている。この語法を借りれば、橋本治さんが追いかけている小林秀雄にはそれほど関心がわかないが、小林秀雄を追いかけている橋本治さんは滅法面白い。
 その「私的な歌人」云々のことを取りあげる前に、同じ第二章から、二つほど、橋本治さんの文章を引いておく。
 その一は、第一章の議論を橋本治さん自身が「要約」した箇所。


《前章で言ったように、和歌とは、「敬語」に代表される制度社会の束縛から脱しえた、人の「生の声」である。契沖の導きによって、宣長は、自分を基点とした自分の歌を詠む。しかしそれは、彼の人的交流を促進しない。宣長の歌は、あまりにも「自分の歌」でありすぎる。やがて宣長は、『源氏物語』と出合って、登場人物達の「生の声」を実現させる歌と、その歌の発生を可能にする、土壌としての物語世界の存在を知る。これが前章で私の語ったことであり、小林秀雄の導きによって得た、私の理解である。「学問をする宣長」は、その後、「生の声を発生させる土壌」のルーツを求めて、『古事記』へと向かう。それでは、「和歌を詠む宣長」は、その後どうなるのか? どうともならない。どうとかなる必要はない。「物のあはれ」を、《人の情[ココロ]の、事にふれて感[ウゴ]く》と理解してしまったら、その先にどうなる必要はない。「和歌を詠む宣長」は、一つの達成を得てしまっているからである。》(86頁)


 その二は、「宣長と桜」の関係をめぐって。
 宣長は、死の前年に認めた遺言書に、公的な墓と私的な墓の二つの墓を用意するよう、そして、妻は公的な墓に、自らの遺骸は夜中にこっそり私的な墓に埋葬し、その私的な墓には山桜の木を植えるよう、さらに、命日には「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」の歌を自賛した肖像画の軸を掛けるよう指示した。
 小林秀雄は、「宣長という人が、どんなに桜が好きな人であったか、その愛着には、何か異常なものがあった事を書いて置く。」という文章で『本居宣長』(一)をしめくくっているが、それは「書いて置く。」であって、「小林秀雄は、本居宣長が「こうせよ」と言い、役所からはクレイムのついた不思議な葬送を宣長が求めた理由を、分からなかったと思われる」と橋本治さんは書いている。


《《何か異常なものがあった》と言われる、本居宣長の桜への愛着とはなにか。そんなにむずかしいことはない。「本居宣長は桜に恋していた」と考えればいいのである。宣長の二つの墓の内の「私的な墓」は、その「愛しい桜」と共に暮らす《千代のすみか》なのである。だから、その墓にはしかるべき「山桜」が植えられ、そこに彼の妻がいてはならないのである。死ぬと同時に、本居宣長は、いわば「愛人の桜という少女」とこっそり同居を始めるつもりだったのだ。それは、彼のそれまでの人生のあり方や、彼の思う「世間の道徳」とは反する。だから、「夜中にこっそり」であらねばならない。死ぬと同時に、彼は長年連れ添って来た「外的現実」という名の妻と離婚するつもりだった。だから、その死を明らかにする彼の「公的な墓」に、彼の遺骸は存在しないのである。》(77頁)


 実は、いま引いた二つのことがらは、これから抜き書きする、「私的な歌人」としての宣長に大きく深く関係している。と、ここでは、それだけを書いておく。


《果して、宣長の歌は「駄作」だったのか? 宣長の歌が「駄作」だったかどうかは、考える必要がない――これが正解である。彼は自分の歌が「自分の生の声」をそのままにしていることを知っていた。「物のあはれ」論を書く本居宣長にとって、必要なことはそれだけである。「物のあはれ」のなんたるかを明確にするのは、和歌を詠む自分自身への「ゆるし」なのだ。であれば、彼の和歌に対する他人の評価は、不要なのだ。ここで大切なのは、自分の詠む歌が、「自分の生の声」を正確に表しているかどうかだけなのである。本居宣長本人以外の誰が、「宣長の生の声」を知るだろう? それを知るのは宣長ただ一人で、「これは正しく自分の生の声を表している」というジャッジを出来るのも、宣長ただ一人なのである。(略)
 彼は、《桜花 ふかきいろとも 見えなくに ちしほにそめる わがこゝろかな》と、どうしようもなく実感して、ただそう詠んだだけなのである。これを駄作と言いたがる人はあるかもしれないが、「自分の感情に上下はない」と思う宣長にとって、「駄作」という評は、無意味なのである。つまり、彼の和歌は、他人と交流しない和歌なのである。それは、彼のせいではなくて、「和歌とはかくあらん」と思って和歌の優劣、あるいは巧拙を競いたがる、彼の外部にある「時代」のせいなのである。》(86-88頁)


宣長は歌を詠む。他人とは無縁のところで和歌を詠む。その和歌は「独白」でしかない。しかし、宣長は「生の声」を、日本人であることの本来に根差して発した――「発したい」と思った。その声を発して、その声を発する宣長の頭脳の中に「桜」が存在すれば、それはそのまま「恋歌」となる。「桜を愛する本居宣長」とは、そのような思想上の達成の上に存在する「和歌を詠む人」なのである。
 私の理解は、間違っていないと思う。だとしたら、山桜の植えられた本居宣長の墓は、「和歌を詠む本居宣長」のものなのである。その墓の示すものは、「和歌を詠む本居宣長の姿そのもの」なのである。
 だからなんなのか? 本居宣長は「歌人」として存在しているのである。誰とも交わらず、その作を「駄作」と評され、そのことに頓着しなかった「私的な歌人」として。》(89頁)