「私的な文芸評論家」としての小林秀雄=橋本治

 昨日、「橋本治さんが追いかけている小林秀雄にはそれほど関心がわかないが、小林秀雄を追いかけている橋本治さんは滅法面白い。」と書いた。このことについて、少し補足しておく。
 「橋本治さんが追いかけている小林秀雄」というのは、「私的な歌人」として最期を全うした本居宣長のことを保留して、「学者をする人」としての本居宣長を追いかけている小林秀雄のことで、橋本治さんによると、その(本居宣長を追いかけている)小林秀雄が、その(小林秀雄が追いかけている)本居宣長とイコールだということになる。つまり、「小林秀雄本居宣長=学問をする人」である。
 だとすると、橋本治さんが追いかけているのは「学問をする人」としての小林秀雄のことかというと、そうではない。橋本治さんが追いかけているのは、「学問をする人」としての小林秀雄自身のルーツを、つまり「学問する知性」のルーツを追いかけている小林秀雄のことだ。『小林秀雄の恵み』の第四章まで読んだかぎりでは、そうである。
 橋本治さんは、「「学問をする人」として本居宣長を追いかける小林秀雄は、『本居宣長』の最後で、「私的な歌人」である本居宣長に届けない。」と書いていた。でも、それは、「私的な歌人」でない小林秀雄にとっては、批判の言葉にならない。橋本治さんも、この文章を小林秀雄批判として書いているわけではない。
 橋本治さんがここで言っているのは、たぶんこういうことだ。――「「学問をする人」として本居宣長を追いかける小林秀雄は、『本居宣長』の最後で、「私的な歌人」である本居宣長に届けない」にもかかわらず、「私的な歌人」としての本居宣長が「『源氏物語』に於いて“生の声を発せさせる”を可能にした土壌」のルーツ探しに向かったように、小林秀雄は『本居宣長』で「学問をする知性」のルーツ探しに向かっている。
 そのルーツをめぐって、橋本治さんは『小林秀雄の恵み』の第四章で、小林秀雄自身が語った「新学問」(儒教テキストの読み直し=儒教ルネサンス)の基点(中江藤樹)より以前の、小林秀雄が語らなかった「存在しない日本の思想状況」にまで説き及んでいる。それはそれでとても面白いのだが、「滅法」面白いわけではない。
 橋本治さんは、「私は、本居宣長を「和歌が詠みたかった人」とさっさと理解して、彼の学問は、その欲望を支える二番目以下だとしか思っていない。」と書いていた。その上で、「彼[=本居宣長]の学問」をめぐって『本居宣長』を書いている小林秀雄のことを面白いと思い、『小林秀雄の恵み』で、その小林秀雄を追いかけている。
 この語法を借りると、私は、小林秀雄を「学問がしたかった人」とさっさと理解して、彼の○○は、その欲望を支える二番目以下だとしか思っていない。その上で、「彼[=小林秀雄]の○○」をめぐって『小林秀雄の恵み』を書いている橋本治さんのことを「滅法」面白いと思っている。
 ここで、先の「小林秀雄本居宣長=学問をする人」を応用すると、「橋本治小林秀雄=○○をする人」となる。では、その「○○」とは何か。その答えが、第三章に書かれている。


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 で、『小林秀雄の恵み』の第三章「「語る小林秀雄」と「語られる本居宣長」」。
 本居宣長のことを語りながら、(その本居宣長と等価の)小林秀雄自身を語っている『本居宣長』の叙述の構造(語り方)が、そうした「本居宣長を語る小林秀雄」を語りながら、(その小林秀雄と等価の)橋本治自身を語っている『小林秀雄の恵み』の叙述の構造にオーバーラップしていく。(橋本治さんは、『本居宣長』の語り口を模倣している。その模倣が意図的なものかどうかは別として、そう断言していいと思う。)
 小林秀雄を語りながら自分自身を語ってしまう橋本治さんは、どこか、小林秀雄が語らなかった本居宣長に似てくる。それは、「私的な歌人」という言葉をもじって、「私的な文芸評論家」もしくは「一介の売文業」としての橋本治(=小林秀雄)とでもいうべきものだろう。


《日本の文芸評論を確立し、大学教授にもなり、それを十年で辞めて、《私の書くものは随筆で、》と言ってしまう小林秀雄は、自分に与えられる肩書きを拒絶する人でもある。だから、小林秀雄には「売文業」という肩書きさえもある。(略)
 私は、自分を「売文業者」とする小林秀雄を、「自分を卑下した」とは思わない。これほど誇り高い名乗りもないと思う。盛んになった文芸評論を《寝言囈言》と切って捨てて、それでもなお「文芸評論家」であった人にふさわしい誇り高さだと思う。小林秀雄にとって、「他人がどうであろうと、自分は別」というのは、動かしがたい事実だからである。
 はっきり言ってしまえば、小林秀雄に最もふさわしい肩書きは「小林秀雄であること」である。「小林秀雄の職業は“小林秀雄”だった」である。小林秀雄のなんたるかを知る人にとっては、それでいい。小林秀雄のなんたるかを知らない人にとっては、「売文業」である。原稿を書き、そのことによって収入を得て、生計を立てている――「売文業」であることに紛れもない。そして小林秀雄は、そのような「生活者」であることを恥じない。(略)そういう人にとって、《文芸の社会性とか、文学作品の社会的評価とかいうことがしきりにいわれ、それが文芸時評の中心問題たる観》を呈してしまうことは、《寝言囈言》の花盛りでしかないだろう。文芸評論で生活が成り立ってしまえば、それすなわち「社会的な自立」でもあるからだ。それを「売文業」と言われることに引け目を感じるのは、《社会性》や《社会的評価》を問題にしたがる文芸評論の未熟でしかない。「売文業」を蔑視として使う側のその視線を撥ね返してしまえば、形式主義に堕してしまった「売文業ではない知的な人々」の怠慢を衝くことも出来る。小林秀雄にとっての「売文業」という名乗りは、それだけの「戦意」を表明するものでもあったろう。》(116-117頁)


 ここで言われている、「文芸の社会性とか、文学作品の社会的評価とかいうこと」を気にしない小林秀雄は、「誰とも交わらず、その作を「駄作」と評され、そのことに頓着しなかった」私的な歌人としての本居宣長と響き合っている。


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 ところで、いま引いた文章の最後に出てくる「戦意」という言葉は、実は、「学問をする知性」のルーツにかかわる縁語になっている。
 『小林秀雄の恵み』の第四章「近世という時代――あるいは「ないもの」に関する考察」で、橋本治さんは、戦国時代の下克上を通じて、「誰もが武力を先に立てて、混迷状況から抜け出すための知性を持たざるをえなくなった。これを私流に結論付けてしまえば、「そうして、近世には学問する知性が生まれた」である。」と書いている。
 そして、そうした「武者の時代」を到来させた者の名を特定する。保元の乱で暗躍した信西である。
信西は、「武力の意味」を知っていた日本で最初の政治家なのである――であればこそ、彼の生きていた時代の人間は、信西のことを「さっさと忘れられてしかるべき悪玉」のようにも位置付けてしまうのだろう。「ないこと」を前提にしてものを言っても仕方がないが、信西は、日本で唯一、マキアヴェリの『君主論』のようなものを書ける政治家だったのである。そして、信西にそのような著作はなく、政治史の上での信西の「位置」などというものもまた、ないも同然である。しかし、重要なものは、その「ない」という事実なのである。」
 最後の、「ない」という事実、とは、仏教とともに伝来した儒教が、近世になって、新学問=近世思想の「トップランナー中江藤樹による「儒教ルネサンス」を迎えるまで、空気のような存在であったことを指す。
「要するに中江藤樹は、「世の中に身分の差はあるが、それと学問をすることは関係がない」ということに感動したのである。こんな言うまでもないことに筆を費やすのは愚かかもしれないが、「言うまでもないこと」を言うのと言わないのとでは、大きな差が生まれる。なぜかと言えば、中江藤樹の言うことは、一挙に「人は皆平等である」の近代へ行き着いてしまう可能性を有しているからである。(以下、略)」