身体が夢見る「わたし」が幻想する「身体」・その他の話題

 昨日書いたことと関連して、岩波書店から出ている「身体をめぐるレッスン」の第1巻『夢見る身体』の序論、鷲田清一さんの「身体という幻[ファンタスム]」から、気に入った言葉を二つ引いておく。


《身体は物として知覚されるより先に幻想される。あるいはむしろ、「わたし」が幻想するというより、身体自身が夢見ると言ったほうがいいだろうか。身体が見る夢のひとつが「わたし」である、と。この幻想は、「わたし」に囲いを与えもすれば、「わたし」を引き裂きもする。他者を取り込みもすれば、他者を排斥もする。共同体や国家へと吸引されもすれば、逆に、宇宙を懐深く引き入れもする。身体が紡ぎだすこの幻想は、ほかならぬその身体を硬直させ、ときに溶かしもする。そのことによって、身体は生きる者の疼きの場所となり、また悦びの場所となる。おなじように、身体は、記憶を澱のように溜める場所となり、また記憶を溶かしてすくなくとも意識から消してしまう場所ともなる。祈りの宿る場所ともなり、希望を禁じる場所ともなる。
 幻想によって縫われた身体のアラベスク、それこそ「人間」のいのちの実相ではないか。身体は〈物〉ではなく〈幻〉として縫い合わされているという視点から、はたして、わたしたちの〈いのち〉のどのような過去と現在と未来が見えてくるだろうか。》


《身体を動かす中枢は脳ではない。身体は、体位とか構えとか感能といった、抹消に自生するいのちのフォーメーションとかんがえたほうがよい。だからそれはとても可塑的である。身体の最大の特質はおそらくこの可塑性にある。身体にまといつく〈幻〉は、それを硬直させもするが、それを押しひろげもする。》


 昨日書いたことというのは、『源氏物語』の作中人物達が「自分の生の声」を和歌に結実させる土壌を持っていて、その土壌というのが実は『源氏物語』だったという橋本治さんの説のことで、ここに出てくる「生の声」と、それを発する土壌としての「自分の生きる世界」との関係が、鷲田清一さんが書いている、身体が夢見る「わたし」と、そのわたしが幻想する「身体」(精確には、身体が夢見る「わたし」が幻想する「身体」)との関係とどこか似ていると、私は思ったのだ。


     ※
 『小林秀雄の恵み』は、第二章「『本居宣長』再々読」に入った。
 あいかわらず、橋本治さんの「口語」は絶好調で、たとえば、小林秀雄が、五年も続いた『感想』の連載を中断(橋本治さんは「中絶」という語を使っている)した「理由」をめぐって、橋本治さんはこう書いている。(文中の《無学》云々は、小林秀雄岡潔との対談で、「失敗しました。力尽きて、やめてしまった。無学を乗りきることが出来なかったからです。」と言ったことを指している。)


《しかし、五十六歳で『感想』を書き始める小林秀雄は、その連載中に六十歳を越える。小林秀雄は若くても、もう「若者」ではない。たとえ《無学を乗りきることが出来なかったからです。》と思っても、小林秀雄は、それだけで『感想』を中絶しなかっただろう。《無学》云々の後に、小林秀雄は《大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません。》と言っている。見当がついたのなら、そこへ向かって進んで行くことは出来るだろう。たとえ《無学》ではあったとしても、それを乗り越えようとする意志が学問ではあるはずだ。ましてや、《大体の見当はついた》なのである。もちろん、《見当がついただけでは物は書けません》は、本当である。その後に、「見当をつけた対象を、書けるようになる努力」が要る。そんなことくらい、小林秀雄は重々知っているだろう。知っていてやめたのなら、なんらかの理由はあるはずだが、私が思うに、その理由は一つである。つまり、「その努力をしても意味はない」である。六十歳を越えた小林秀雄は、「ベルグソンを分かって分かれなくはない。しかし、それを分かることにどれほどの意味があるだろうか?」と考えた──私には、それ以外の理由が考えられないのだ。
 自分がもう「若者」ではなく、「若者である必要」も感じられなくなった時、小林秀雄は「ベルグソンを学ぶ」ということの意味を手放したのではないかと思うのだ。六十歳を越えて、既に「小林秀雄であることの実質」を備えてしまったはずの人が、その上にベルグソンを学ぶということをしてどれほどの意味があるのか? それは、「なおまだ若者であることを続ける」ということでしかない。小林秀雄は、「自分がなおもまだ若者であることを続ける」ということに疑問を抱いたのだ──それが『感想』中絶の理由だとしか思えない。だから、ベルグソン論の『感想』は、小林秀雄の著作の中に存在しなくてもいいのである。だからこそ小林秀雄は、ほとんど「ただちに」と言ってもいい素早さで、本居宣長へ向かったのである──私には、そうだとしか考えられないから、そのように解釈する。》(65-66頁)


 これに続けて、橋本治さんは、「だから、『本居宣長』の中で、小林秀雄本居宣長は、初めから等価なのだ。小林秀雄本居宣長を丁寧に辿って、本居宣長を学ばない。既に自分の中にある「蓄積」を、本居宣長の学問プロセスに、慎重に対応させていく。だから……」とたたみかけていく。
 橋本治さんがいう、小林秀雄と等価の本居宣長は「学問する人としての本居宣長」で、「和歌を詠みたかった本居宣長」ではなかった。橋本治さんは、「私は、本居宣長を「和歌が詠みたかった人」とさっさと理解して、彼の学問は、その欲望を支える二番目以下だとしか思っていない。」と書く人だから、「学問する人としての本居宣長」を追いかけた『本居宣長』について、次のように書く。


《私は、本居宣長がその最期において「私的な歌人」という全うの仕方を選んだのだと思っている。しかし、「学問をする人」として本居宣長を追いかける小林秀雄は、『本居宣長』の最後で、「私的な歌人」である本居宣長に届けない。(略)
 小林秀雄は、「学問する人」として本居宣長を追いかけて来た。そして、どこかで本居宣長に逃げられた──逃げられたかどうかは別として、『本居宣長』を終えようとする小林秀雄の掌の中に、本居宣長はいない。》(60-61頁)


 『感想』中断の理由をめぐる橋本治さんの解釈は面白い。(ちなみに、『小林秀雄の恵み』の「新潮」への連載を始めた年の橋本治さんは56歳で、今年でちょうど60歳になる。「橋本治であることの実質」を備えているわけだ。)
 でも、「私は、本居宣長がその最期において「私的な歌人」という全うの仕方を選んだのだと思っている。」と書く橋本治さんは、もっと面白い。