紙一重

文庫本で吉本隆明の著書を二冊、同時に読み進めている。
カール・マルクス』(光文社文庫)と『最後の親鸞』(ちくま学芸文庫)。
なんど読み返しても、咀嚼しきれない濃厚な残余が後を引く。
思想家としての吉本隆明の凄さがようやく判りかけてきた。そんな気がする。
中沢新一の解説(「マルクスの「三位一体」」,「二十一世紀へむけた思想の砲丸」)がついていて、どちらも力がこもっている。
この二冊を存分に読み込めば、そこからヒントを得てなにか自分なりの思索を展開できそうな気がしている。
けれども、それはまだ朦朧としている。
今日のところはただ一点、二つの書物の冒頭にあたる箇所にでてきた共通する語彙をめぐって、前後の文脈をぬきにして抜書きしておく。

 ひとは、たれでもフォイエルバッハのこの洞察が、ほとんどマルクス紙一重であることをしることができるはずだ。そういった意味では、この紙一重を超えることが思想家の生命であり、もともとひょうたんから駒がでるような独創性などは、この世にはありえないのである。
 マルクスにとっては、フォイエルバッハのように、〈自然〉は、人間と自然とに共通な基底ではなかった。それは〈非有機的身体〉と〈有機的身体〉として相互に浸潤しあい、また相互に対立しあう〈疎外〉関係であった。わたしのかんがえでは、フォイエルバッハが、あたかも光を波動とかんがえたとすれば、マルクスはそれを粒子という側面でかんがえてみたのである。それは、マルクスギリシア〈自然〉哲学の原子説を生かしきったことを意味している。フォイエルバッハの〈共通の基底〉を、〈疎外〉にまで展開させたおおきな力は、この紙一重の契機であった。(「マルクス紀行」,『カール・マルクス』41頁)

けれど法然親鸞とは紙一枚で微妙にちがっている。法然では「たとひ一代ノ法ヲ能々学ストモ、一文不知ノ愚とんの身ニナシテ」という言葉は、自力信心を排除する方便としてつかわれているふしがある。親鸞には、この課題そのものが信仰のほとんどすべてで、たんに知識をすてよ、愚になれ、知者ぶるなという程度の問題ではなかった。つきつめてゆけば、信心や宗派が解体してしまっても貫くべき本質的な課題であった。そして、これが云いようもなく難しいことをよく知っていた。
 親鸞は、〈知〉の頂きを極めたところで、かぎりなく〈非知〉に近づいてゆく還相の〈知〉をしきりに説いているようにみえる。しかし〈非知〉は、どんなに「そのまま」寂かに着地しても〈無智〉と合一できない。〈知〉にとって〈無智〉と合一することは最後の課題だが、どうしても〈非知〉と〈無智〉とのあいだには紙一重の、だが深い淵が横たわっている。(『最後の親鸞』17-18頁)