『記憶と生』(第1回)

以前、「日常座臥、ベルクソンの文章に浸っていたいと思うようになった」と書いた。
「まるで、恋をしているような気分」とも。
ベルクソンの文章に接しているときだけ、心と躰のもやもやが晴れて、澄み切った気持ちになれる」とも。
あれからほぼ二ヶ月。ようやく今日、ベルクソンを少し読んだ。
ドゥルーズによるアンソロジー『記憶と生』(前田英樹訳)に収録された77篇のテキストのうち、「持続の本性」のタイトルで括られた冒頭の5篇。
昨年、『物質と記憶』でやったように、毎回ノートをとることにした。続くかどうかわからないが。

で、ベルクソンが考えた「持続」の本性とはなにか。
今日読んだところでは、『創造的進化』からとられたテキスト3「心理学を超えて:持続、それは全体である」が印象に残った。
それは『物質と記憶』の最後に出てきた、「延長をもつ物質は、全体として考察すれば意識のようなもの」であるという(驚くべき)規定につながる。
つまり、「物質(の歴史)の持続」というアイデア
「宇宙は持続する。時間の性質を掘り下げるほど、いよいよ明らかになってくることは、持続とは発明であり、形態の創造であり、絶対的に新しいものの絶え間ない生成だということだろう。」(『記憶と生』20頁)
この程度の抜書きでもって軽く通り過ぎていくことはできないと思うが、まだ始まったばかりなので、今日のところはこれでよしとしよう。

それにしても『記憶と生』は素晴らしいアンソロジーだ。
他人の著作群をバラバラに解体し、これを再編集して一冊の未完の著書をつくりあげる。
各テキストにふられた註(「テキスト※参照」)に沿って他のテキストに飛び、また戻って読むといった作業を繰り返していくうちに、その未出現の書物が読者の脳髄のなかにかたちづくられていく。
およそ思考というものが、なにもないところからは立ち上がらないものだとすれば、そうした思考のあり方そのものをこのアンソロジーはかたどっている。
福岡伸一さんが、食べることつまり消化とは情報を解体することだと書いていた(『ソトコト』6月号)。
ここでいう「情報」とはタンパク質のことで、情報の解体とはタンパク質(文章)をアミノ酸(アルファベット)に分解することである。

体内に入ったアミノ酸は血流にのって全身の細胞に運ばれる。そして細胞内に取り込まれて新たなタンパク質に再合成され、新たな情報=意味をつむぎだす。つまり生命活動とは、アミノ酸というアルファベットによる不断のアナグラム=並べ替えであるといってもよい。
 新たなタンパク質の合成がある一方で、細胞は自分自身のタンパク質を常に分解して捨て去っている。なぜ合成と分解を同時におこなっているのか? この問いはある意味で愚問である。なぜなら、合成と分解との動的な平衡状態が「生きている」ということであり、生命とはそのバランスの上に成り立つ効果であるからだ。(福岡伸一「食べることは情報を解体すること」,ソトコト連載「等身大の科学へ」)