いろいろな本と映画

神戸の中央図書館に六冊返し、一冊の継続を含めて七冊借りてきた。
継続したのは安藤礼二『神々の闘争 折口信夫論』。ここ二ヶ月ほど借りっぱなしで一行も読んでいなかった。
帰りに寄った喫茶店で「あとがき」に目を通した。
2001年9月11の「世界史的な事件」を目にした「その瞬間、本書の全体の構成が、細部に到るまで一気に確定された」という。
「あとは、その時につかまえたヴィジョンを、自分なりの言葉にしていくだけだった」。
松浦寿輝さんの名著『折口信夫論』の再読とあわせて、必ず読み切りたいと思った。
ついでに折口信夫の芸能論も読んでおきたいと思ったが、結局読まないかもしれない。
茶店ではT.イーグルトン『新版 文学とは何か──現代批評理論への招待』の「新版のはしがき」と「訳者あとがき」を読んだ。
昨日買った廣野由美子『批評理論入門──『フランケンシュタイン』解剖講義』の副読本にと思って借りたのだが、これは逆だったかもしれない。
保坂和志の全作品を最初から読み直していちおうの「決着」をつけておきたいと考えはじめている。
読まずに警戒していた批評理論を少し囓り、スーザン・ソンダクの『反解釈』やバフチンなども読み、そうしたことをすべて忘れて『この人の閾』以来の全文章を読み通してはたしてなにが出てくるか。
一年くらいの作業になると思うが、結局手をつけないかもしれない。
続いて大森荘蔵『物と心』の「はじめに」も読んだ。
最近再読した(といってもざっと流した程度)桑子敏雄さんの『感性の哲学』に大森荘蔵の「ことだま論」の話がでてきたのでにわかに読みたくなった。
次回の「マルジナリア」で大森晩年の三部作(『時間と自我』『時間と存在』『時は流れず』)を取り上げようかと考えている(タイトルは「哲学のオーモリ」とでも)。
この際大森本を何冊かまとめ読みをしておこう。
桑子さんの本も『気相の哲学』を借りてきた。これは大森荘蔵が最期に読んだ本らしい。
残りの三冊は吉岡忍『奇跡を起こした村のはなし』と浦雅春『チェホフ』と中島義道『続・ウィーン愛憎──ヨーロッパ、家族、そして私』。
吉岡さんの本を帰りの電車の中で少し読む。
八巻目で中断しているチェホフ全集読破への再挑戦はここ数年の課題。
中島の臆面のない文章は久しぶり。


近所の図書館では三冊返却して、辻信一『スロー快楽主義宣言!──愉しさ美しさ安らぎが世界を変える』を継続して借りた。
中央図書館へ向かう電車の中で最後の第12章「野生という快楽」を読んだ。
この人の文章にほんの少し手を加えると(たとえば初期の村上春樹の短編小説のような味わいをもった)良質のフィクションになる。
「ぼくはタヌキと話したことがある。本物のタヌキだ。いや、多分ホンモノだったと思う。」
「ぼくはビーバーになったことがある。といっても夢の中の話だ。」
帰りに藍川京『炎[ほむら]』を買った。
このところ官能系では睦月影郎ばかり読んでいるので、趣向を変えてみた。
家に帰って遅い昼食をとりながら『理系生活のススメ』(アエラ臨時増刊 SCIENCE)を読む。
アメリ脳科学の最前線が特集されていて、養老孟司玄侑宗久下條信輔といった面々が登場する。
最近購入して読めずにいた脳科学関連の本がたまっている。
久しぶりに予定のない休日を迎えたので一気読みで過ごしたいところだが、村上龍の『半島を出よ』が面白くなってきたし、山田正紀の『神狩り2 リッパー』も気になるし、昨晩近所のレンタルショップで二泊三日で借りてきた三本のDVD(『悪名一番』と『仁義なき戦い 広島死闘篇』と黒澤明の『どん底』)も観ておきたい。
で、せっかくの休みがあっという間にすぎていった。
五時間ほど映画を観ているうちに一日が終わってしまった。
仁義なき戦い』の第二弾もよかったが、『悪名一番』がとりわけよかった。
シリーズ第八作で、最初から順番に観てきてこのところややマンネリ気味だったのが、東京篇でがぜんよくなった。
最後に観た『どん底』の群像劇は鮮烈だった。