『他界からのまなざし』

古東哲明『他界からのまなざし』読了。
第一章「他界の近さ」で日本人の近傍他界観を、第二章「反転する浄土」で芸術(世阿彌の離見の見や見所同心)を、第三章「プレシオスの鎖」で文学(グノーシス宮澤賢治の成道精神)を、昨日読んだ第四章「空白の共同体」で哲学(フッサールの間主体論や現象学的還元)を、そして今日読んだ第五章「遊体論」で宗教(プラトンの神秘思想=生や世界の遊戯性=宗教的身体技法)をとりあげ、エピローグで「だからもう、バスを待つのはやめよう」と呼びかける(修業=遊戯の勧め)。
中沢新一さんの本と同じで、結局ここには何も書かれていない。
読み終えて何も残らない。幸福な充填と愉悦に満ちた空虚。
臨死から臨生、往路から復路を主題的に論じた第四章が本書のハイライトだと思うが、章末に記された「ある新しい予感にみちたエチカ」(=シュヌーシアの磁場がかたちをとった新しいエチカ)の詳細については「他日を期す」とされている。
肝心要のところで他日を期されては欲求不満になる。
第五章が『現代思想としてのギリシア哲学』第五章「ギリシア霊性」の引き写しだっただけにこれでは詐欺にひとしい。
「シュヌーシアの磁場がかたちをとった新しいエチカ」とはいったいなんだ。『「私」の考古学』(岩波書店「宗教への問い3」)に収められた論考「魂と自己―ギリシア思想およびグノーシス主義において」で彌永信美さんが、グノーシス主義のシュジュギアー(合一)体験や『トマスによる福音書』(「ギリシア霊性」の章末でも引用されている)の記述から「シジジイ」(細胞核の移動と融合と再分裂)による単性生殖へと筆を運んでいたが、それと関係するのか。
はっきりしてくれ。


いま『他界からのまなざし』の第五章が『現代思想としてのギリシア哲学』の引き写しだと書いたけれど、一箇所だけとても重要な加筆があった。
「青人草[あおひとくさ]」という言葉があるように、古代の日本人は身体を植物組織のようにみなしていた。
カラダ=殻胴・枯胴、エダ=手足、芽=眼、葉=歯、花=鼻ときて最後に実=耳(実々)=身。
ここに出てくる「耳」が『神々の沈黙』の「二分心」の説に通じる。
折口信夫の「神=マレビトの訪れ=音連れ」とか、鎌田東二さんが『記号と言霊』に書いていた「人類は言葉を話す以前に、何万年も、何十万年も、いやことによると何百万年もの長い期間にわたって、その[太古の]声を聴いていたのだ」にも。)

このように、古代の日本人は、目で見えるもの以上に、音で聞こえるなにかを貴重で神意的で、だから最終的なことと感じていた。それは第一章でもふれたように、音の訪れを神秘的なほど神々しいなにかの到来とみた古代人のルーツフィーリングと深く関わっている。だからこその言霊思想でもあったろう。そしてそんな音を聞く聴覚器官としての「耳」に、「生命の結実態」としての「実」を、あるいは「生命活動の最終兄弟」としての「実」を重ね合わせたのだと、考えられる。/と同時に、そんな耳と実との類推から、人間の生命活動のほんとうの正体とか最終的な形態として「生きた身体」の次元に、「身」という言葉を対応させた。そう考えることができる。(171頁)

上の文章に出てくる「身」のことを古東さんは「プシューケー」や「器官なき身体」になぞらえている。
現代思想としてのギリシア哲学』は再読してもやっぱりこのプラトンの章がハイライト。
プラトンイデア論を背後世界論や背後世界論といった西洋形而上学特有の二世界論として解釈するのは間違いだ。
それは「生死を超脱した、しかも実在的な《この世界》についての理論」なのだ(224・229頁)。
そもそも「プラトン哲学」なるものはない。
プラトンが書き残した対話篇は、「たましい」(=プシューケー=身・ミ=生命の息吹)の向き変え・改変(ペリアゴーケー=実存転調・身体変容)への誘いであった(226頁)。
その根底にエレウシスの密儀体験(死と再生)があると、古東さんは書いている。

そもそも密儀なんかなかった。そういってもいい。生ける身体(身)の、語りようもない深部に起こる、まさに〈転身劇〉が、エポプテイア(奥義開顕)だったからだ。それは、文字どおり、その〈身〉で示すしか、示しようもないことがらである。(略)かさねていうが、ポイントは、この世を生きるぼくたちの生き方(実存・ミ)に、根本的な革命がおき、それに呼応し、この世この生の相貌が全く変容する、ということだ。(225頁)

これを読んで大森荘蔵のことを想起した。
正確には「大森哲学の感触」を想起した。
そもそも「大森哲学」なるものはない。
そこにあるのは、ただ神秘体験なき神秘主義の感触(存在感触)で、それは永井均さんの書き物に通じている。