『認められたい!』

太田肇『認められたい!』読了。
本をいただいてから二ヶ月。なかなか手に取る時間がなかった。
仕事をさぼって盗み読みを初めると、最後までほとんど違和感を覚えることなく一気に読み進めることができた。
(ただ一点、この本がどのような読者層を想定しているのかだけは最後まで見定めることができなかった。)
読み終えて、著者の人間観、社会観の「成熟」を強く感じさせられた。
私はある時期から著者の人間観に違和感を覚えるようになっていた。
それは本書の「あとがき」にも出てくる二つの言葉、「きれいごと」と「ホンネ」の区分・対立のさせ方があまりに表面的すぎるのではないかという不満(懸念)によるものだった。
ここでいう「きれいごと」とはたとえば「人間にとって重要なのは自己実現だ」とか「(仕事の)意欲を引き出すのはお金ではなく仕事の楽しさや面白さだ」といった言い方のうちに示される型にはまった思考のことで、これに対する「ホンネ」とは(本書の場合)名誉欲や自己顕示欲、功名心、プライド、メンツなどの「承認欲求」のことだ。
「きれいごと」だけでは「組織で働いている人たちの行動やドロドロした現実の世界をとても説明できない」。
「人間や組織をほんとうに動かしているもの」、つまり「心の深層」にある「ライバルや顧客、業界、学会などに、あるいは広く社会に認められたいという強い欲求」が「仕事の面白さや働きがいにつがっている」という事実を見据えなければならない。
この認識自体は正しいと思う。
私の限られた経験(社会的および私的経験)からいっても、「人間や組織をほんとうに動かしているもの」は裏返しの承認欲求ともいうべき嫉妬と羨望である。
著者の次の指摘は、人間集団のリアリティを鋭く抉っている。

世間では、嫉妬や羨望といえば不合理な感情の問題としてかたづけてしまいがちですが、実はそれがある意味で合理的な感情であり、そこから生まれる態度や行動もまた、論理的に説明できるということを見逃してはなりません。つまり、お金やモノを求めて争うのと同じように、名誉欲、自己顕示欲やプライドをめぐる戦いや競争が繰り広げられていると考えれば理解しやすいのです。(30頁)

著者は、承認欲求を「タブー視せず、それを真正面から受け止めることからスタートしなければ展望は開けません」(151頁)と語っている。
それを裏返していえば、嫉妬や羨望を「心の深層」に秘匿すべき負の感情としてタブー視せず、真正面から受け止め公に語ることができる言説の空間をつくらなければ人間集団の展望は開けない。
しかし「きれいごと」と「ホンネ」は一方が虚偽で他方が真実だといった単純な区分では片づけられない。
本来この二つは同じ次元に並び立つものではない。
理想と現実と言い換えても同じことで、現実を直視しない理想論は欺瞞だが、理想を現実のうちに回収してしまう議論は不毛だ。
著者はそんなことは百も承知で、前者の欺瞞を撃ちつつ、後者の不毛を回避する途を探ってきた。
この方法も正しいと思うし、組織対個人の関係においていかにして個人が「生きのびる」か、どのようにして組織を「つかいこなす」かといった問題設定とその処方箋はとても切れ味がよかった。
ただ、そこで得られた知見・洞察を組織や人事政策に応用し、さらには一般社会に応用するためには、「きれいごと」対「ホンネ」の一見わかりやすい図式をもっと鍛えなければならない。
さもないと「きれいごと」がもっている「人間や組織をほんとうに動かしている」力を見失ってしまう。
いくら「きれいごと」(政権公約)を掲げても、所詮、政治は権力闘争である。
そんなことは誰でも知っている。
本当の問題は「ホンネ」(権力欲)を暴くことではなく、「ホンネ」のうちに孕まれたエネルギーを通じてどのような「きれいごと」を実現するかということだ。
いいかえれば「きれいごと」がもつ欺瞞性を人間集団や社会の実相として直視し、これを真正面から受け止め公に語ることができる言説の空間をつくらなければ人間集団や社会の展望は開けない。
私の不満(懸念)は本書を読むことでほとんど払拭された。
次の二つの点で、著者の人間観や社会観の「成熟」を感じさせられたのである。
第一は、「ホンネ」を個人の内面のうちに限定して論じるとらわれ(あるいは「きれいごと」=「公」に流通する出来合の言説、「ホンネ」=心の深層にある「私」的な欲望という二元論)から解放されていること。
第二は、「きれいごと」と「ホンネ」の統合の可能性(あるいは背反する二項の一方を切り捨てるのではなく、両者の統合へ向けた不断のプロセスこそが人間集団や社会の実相であるという見極め)を見出していること。
第一の点は、たとえばE・L・デシ(『内発的動機づけ』)の「承認=情報」の説の紹介(45頁,235頁)やV・E・フランクル(『現代人の病』)の引用(53頁)──人間本来の重要性は意味の可能性の充足にあるのだが、その意味の可能性は「自分の内に閉ざされたものとしての心理の中に、と言うよりむしろ世界内に見出されるべきものなのである」──のうちに示唆されている。
第二の点は「個人主義集団主義の調和」と題された節(159-163頁)のうちに明快に示されている。
(ただ、「会社や社会のために尽くすことがそのまま自分の名誉に直結する構造」を自分の中につくりあげている「超一流の域に達した」人物について、「もっとも彼らがこのような境地に達することができたのは、たんに彼らの能力や姿勢が優れていたためではなく、彼ら自身が恵まれた立場に置かれていたためでもあることは見逃せません」とあるのは、一面の真理ではあるのかもしれないが、そもそもこの指摘に「実証性」はあるのだろうか。)
本書を読んで、前田英樹の『倫理という力』に出てくる「トンカツ屋のおやじ」の話を想起した。

客から金を取って生活しているトンカツ屋のおやじにとって、客は手段である。けれども、美味いトンカツを食わせることに関するこのおやじの並外れた努力は、客を目的とすることなしには成り立たない。客はおやじを尊敬する。おやじも味のわかる客を大事にするが、大事にするからといって、金をもらわないわけにはいかない。これが、おやじの立てている文句のつけようがない尺度である。(54-55頁)

「きれいごと」と「ホンネ」をめぐって先にくどくどと書いたのは、要するに、それらを真っ二つに分断することは、生の実相を損なうことになると思ったからだ。
しかしそのことと『認められたい!』が論じていることとはやはり別の話だったのかもしれない。