『のだめカンタービレ』『小説の自由』

二ノ宮知子のだめカンタービレ』読了。
火曜日に#1を買って読み終え、水曜日に#2と#3を買ってこれもその日のうちに読み終え、とうとう止まらなくなり、木曜日から土曜日まで3巻ずつ一気に#12まで読みきってしまった。
#9までの桜ヶ丘音楽学校篇はこれだけで充分に完成・完結している。
#10から始まったパリ編は物語の行方(というか感触)をまだ作者が手探りで探っている感じ。
このあとどこまで進んでいくのかまだ見えないが、途方もなく長大な物語に発展・深化してきそうな気配を感じる(たとえば『ガラスの仮面』のような)。
このマンガの面白さは「読んでいる時間の中にしかない」(C:保坂和志)。
二ノ宮知子がつくりだすキャラクターの面白さも、読んでいるマンガの中にしかない。
この作品でとりわけ面白いのは演奏会の情景を描いた箇所──たとえばシュトレーゼマン指揮、千秋真一演奏のラフマニノフ・ピアノ協奏曲2番(#5)とか千秋真一指揮のブラームス交響曲1番(#8)など──で、当然のこととしてそこに音は響いていない。
しかし紙面の沈黙のうちにたしかに音楽が流れている。
それも音楽の表現のひとつのかたちである。
これはちょっと比類ない達成なのではないかと思った。


     ※
保坂和志『小説の自由』読了。
カンバセイション・ピース』と並べてみると、この二冊の本が姉妹編だったことがよくわかる。
カバー写真も撮影した写真家も違うけれど装幀はどちらも新潮社装幀室で、本の造りとデザインがそっくりだ。
昨日と今日の二日かけて最終章「13 散文性の極致」を読んだ。
本書全体の集大成ともいえる章で、頁数も多いが内容も濃い。
「4 表現、現前するもの」とあわせて読むと『小説の自由』はほぼ了解できると言いたいところだが、この本はそれほど要領よく要約してすませられるほどヤワではない。
野矢茂樹『他者の声 実在の声』と対比させながらレビューを書こうと目論んでいた。
たとえば野矢の「論理空間」と保坂の「小説世界」と「言語の外」と時間の関係とか。
でも『他者の声 実在の声』をまだ読み終えていないし、保坂和志の文章からなにか理論めいたものを引き出すことは虚しい。
その虚しい作業にいずれ取り組むことになるかもしれないので、ここにそのラフスケッチを書いておく。
保坂和志の思考のかたち(というか手順)はいつも三つの項から成っている。
たとえば「音楽」と「美術」と「小説」。
たとえば「表現」と「感覚の運動」と「意味・テーマ」。
たとえば「物質性(音楽性)」と「精神性(散文性)」と「フィクション(第三の領域)」。
たとえばアウグスティヌスカフカとチェホフ。その他諸々。
これら三つの項を行ったり来たり逡巡しながら「何か」が立ち上がり浮かび上がり「現前」することを能動的に受容することが保坂にとっての小説を書くこと=文字で思考すること=読むことの実相で、それは解釈することとはまるで違う。
それはまた哲学とも似て非なるもので、この違いを一言で表現したのが野矢茂樹の「他者の声 実在の声」である。

他者は、意識における他我ではなく、意味の他者として私を取り巻く。たとえば哲学などはあからさまにそのような声として現れてくる。理解しきれない、しかしまったく理解を拒むわけでもない、「さあ、理解してごらん」という誘惑のざわめき、それが意味の他者なのだ。/同じような誘惑の声を、私は実在のもとに聞く。このコーヒーの味わいも、あるいは先週の山歩きのときのさまざまなことも、言葉で表現しつくすことはできない。しかし、それらは語りえぬものとして言語の向こう側に鎮座しているわけではない。「さあ、語り出してごらん」、そんな誘惑がかすかに、あるいは声高に、響いている。私はそこにこそ、「実在性」の在りかたを見たい。(『他者の声 実在の声』193-194頁)