『物質と記憶』(第3回)

物質と記憶』の(独り)読書会が6週目を迎えた。
先週読んだ第一章の三節「実在論と観念論」を読みなおし、四節「イマージュの選択」を通読した。
脳は一種の中央電話局だという有名な規定がでてくる三節でベルクソンが主張しているのは、知覚が向かうのは認識ではなく行動であるということ。
これを受けて四節は「すなわち神経系は、表象をつくり出すことはおろか、準備することに役立つ装置すらも、何ひとつそなえているわけではない」という書き出しで始まる。
これは漫然と読み流してはいけない驚くべき主張ではないか。
と、驚く身振りを自らに課しながら読み進めていかないと、流麗な文章に流されて議論の本筋がつかめない。
この四節は、意識的知覚の可能性・必然性がそこから引き出される「不確定性」(選択可能性)や、記憶の浸透を受けない「純粋知覚」の仮説などが提示され、知覚の有無にかかわらない「現存するイマージュ」(客観的実在)と「表象されたイマージュ」との関係──すなわち、後者は前者が縮減されたものである──が論じられる重要な節。
一度や二度読んで分かったつもりになってはいけない本書の最初の勘所だ。


物質と記憶』に次の文章が出てくる。

私たちを捉えている問題の困難さはみな、知覚をちょうど、事物を写真にとった景観のように思うところからきている。すなわちそれは、知覚器官という特殊な装置によって、一定の地点から撮影されたのち、脳髄の中で、何か不思議な化学的、心理的な仕上げの過程をへて現像されるのだろう、というわけだ。しかしかりに写真があるとしたら、写真は事物のまさしく内部で、空間のあらゆる点に向けてすでに撮影され、すでに現像されていることを、どうしてみとめないわけにいくであろうか。(45-46頁)

ベルクソンは「どのような形而上学、いや、物理学も、この結論をさけることはできない」としたうえで、続いて、宇宙が原子から成っているとしよう、宇宙が数多の力の中心から成っているとした場合はどうか、最後にモナドから成っているとしたらどうかと議論を進めている。

モナドは、ライプニッツが望んだように、宇宙の鏡である。してみると、だれもがこの点では一致している。ただし宇宙の任意の場所を考えれば、全物質の作用は抵抗も損耗もこうむらずにそこを通過し、全体の写真はそこでは透明であるともいえる。像を浮き出たせる黒いフィルターが、種板の後にないからだ。私たちのいう「不確定の諸地帯」は、いわば、フィルターの役をしている。それらは存在するものに何ひとつつけ加えない。ただ現実的作用を通過させて、潜在的作用を残留させるだけだ。(44頁)

ベルクソンいわく「このことは仮説ではないのである」。
こうやって書き写していけばここでいったいなにが議論されているのかが腑に落ちるのではないかと思ってだらだら引用を続けてみたが、いまひとつ腑に落ちない。
一度や二度読んで納得しようとしてもそうはいかない。