最近借りた本・買った本

精神史的リソースとしての中世芸道論研究のための文献を探しに図書館をはしごした。
どれだけ読めるかはともかく、雰囲気をもりあげるための七冊を選んで持ち帰った。
ドナルド・キーン『日本文学の歴史5 古代・中世篇5』(連歌の章を含む)、草月文化フォーラム編『日本のルネサンス(上)』(松岡心平・大岡信他の鼎談「寄合の芸能」を含む)、酒井紀美『夢語り・夢解きの中世』『夢から探る中世』、松岡心平編『世阿弥を語れば』、網野善彦宮田登『神と資本と女性──日本列島史の闇と光』(書名に出てくる女性・資本・神は『レヴィ=ストロース講義』の性・開発・神話とパラレルだ!)、大岡信『うたげと孤心──大和歌篇』、丸谷才一『日本文学史早わかり』(講談社文芸文庫)の八冊で、いずれも一度か二度目を通したり書店で立ち読みをしたものばかり。


図書館からの帰りにカフェに寄って『神と資本と女性』の第一章「資本主義の考古学」を読んだ。
三浦雅士が聞き手になって網野善彦が語るインタビュー。印象に残った発言を抜き書きしておく。

マルクスの偉いところだと思うのは、研究の領域をどんどん広げ、それとともにその言説自体を変えていく点ですね。「共同体」について、資本主義が発展していく過程で、どのように苦痛を伴う悲惨なことが起ころうと、アジア的、インド的な停滞を支えた共同体は壊れたほうがいいと言っているのですが、晩年、ロシアのことを勉強すると、共同体は社会主義の基盤になりうるかもしれないと言いはじめるわけです。(略)マルクスの好きな、「なべて理論は灰色、ただ緑なす現実こそ豊かなれ」という言葉は私も大好きですね。(19頁)


生産物を商品にするということは、人間の力の及ばない世界に投げ込むことことなんですよ。市庭[いちば]というのはそうした場です。商品、貨幣、資本の問題は本質的には人間の社会の最初、原始時代から考える必要があると思います。交換は人類の本質に関わる問題ですから。しかし、日本では、少なくとも都市が広範に形成される十四世紀ぐらいから、社会体制と関連させて考えなければならないでしょうね。「資本主義」はすでにその頃から始まっているともいえます。(37頁)

網野善彦がいう「十四世紀」は、坂部恵の(四つの)「精神史的転換期」の第二期、つまり「個(体)の思考」の時期(日欧ともに14-15世紀)と重なる。
丸谷才一の(五つの)「日本文学史の時代区分」にいう第三期にすっぽりとおさまる。
ここで坂部(□)・丸谷(△)の時代区分を重ね合わせてみる。
坂部の「霊性」が丸谷の「呪術性+色好み(エロティックな感受性)+政治」(宮廷文化の特質)と響き合う。
(日本文学史における「垂直性」の次元は中国に相当するのだろうか。)


 △第一期「八代集以前」(?──9世紀なかば)
  □「霊性の基盤」(日欧ともに9世紀)
 △第二期「八代集時代」(9世紀なかば──13世紀はじめ)
 △第三期「十三代集時代」(13世紀はじめ──15世紀すゑ)
  □「個(体)の思考」(日欧ともに14-15世紀)
 △第四期「七部集時代」(15世紀すゑ──20世紀はじめ)
  □「モデルニテの時代」(欧1770-1820,日1850-1900)
 △第五期「七部集時代以後」(20世紀はじめ──?)
  □「1960年代以降」(日欧共通)


『日本文学史早わかり』は標題作と「歌道の盛り」の二つのエッセイを読んだ。
昔読んで深い感銘を受けた記憶がある。
新しい関心のもとで読み返すと、あらためて新鮮な感興を覚える(「夷齋おとしばなし」というエッセイも収められていて、かつての石川淳狂い再熱の予感におそわれた)。
標題作からは、詞華集的人間(「アンソロジー・ピース」を参考に造語した丸谷手製の「アンソロジー・マン」の訳語,68頁)とか「宴遊、社交、そして室内装飾としての」実用的な詩(70頁)などの概念を蒐集できた。
以下、標題作から「場と縁」に関係しそうな箇所を二つ抜き書きしておく。

この時代[十三代集時代]に連歌が盛んになつたのは意義深いことで、それは第一に、三十一音の和歌以外の詩形を日本文学にもたらした。そして第二に、和歌が挨拶としての機能を失ひ、孤独な藝術になつた寂しさを補ふやうにして、社交性や遊戯性や即興性を詩に回復した。それは集団の制作で、露骨に共同体的な詩であつた。しかし皮肉なことに、この共同体の詩は詞華集に向かなかつたのである──『菟玖波集』『新撰菟玖波集』と准勅撰が二つも生まれたにもかかはらず、われわれはこれらの連歌集を読んだとて、ほとんど、連歌のおもしろさを解することができない。(60頁)


非常に図式的な言ひ方をすれば、横の方角に共同体があり、縦の方角に伝統があるとき、その縦と横とが交叉するところで詞華集が編纂され、そしてまた読まれる。といふのは、われわれは伝統を所有する際に、孤立した一人ひとりの力で持つことは不可能で、共同体の力によつて持つからである。孤立した個人にさういふことができるといふのは、ロマンチックな妄想にすぎないだろう。事実われわれは、そのことの不可能をいはば無意識的に知ってゐるゆゑに、もうずいぶん長いあひだ、詞華集を持つことを実質的には諦めてゐるのである。つまりわれわれの文明と文化は共同体的なものを失つてからすでに久しい。そしてそのことがどういふ弊害をもたらすかと言へば、いちばん歴然としてゐるのは言葉の衰弱である。言葉は過去から伝はつて来た力を失ひ、社会を築くことをやめてしまつた。(85-86頁)

文庫版の巻末に寄せられた「著者から読者へ 二十八年後に」も面白い。
王朝和歌=藤原定家とエリオット=ジョイスを結ぶ線として、「正徹の歌論を介して日本の文藝理論がモダニズムの批評に近いことを感じとったとき、文学における伝統の重要性がきびしく迫ってきたのである」(221頁)と述懐しているくだり。
(ここでの文脈とはまるで関係ないが、『中世芸能を読む』の「連歌的想像力」の中で松岡心平が紹介している正徹の言葉が面白い。「骨髄に通じて面白きなり」98頁)
もう一つ。私(丸谷)の日本文学史は「朦朧たる観念語によつて述べられるのではなく、具体的な物件によつて表現されることが望ましい」。
その「物件」とは勅撰集のことで、「それは一方においてわが文学における宮廷文化の重要性を示し、他方、『古事記』から谷崎潤一郎に到る系譜が個人主義の所産ではなく共同体的な性格のものであることのしるしとなる、と感じられた」(223頁)。


     ※
買ったままの本・読みかけの本・買ったことさえ忘れていた本・読みかけだったことを忘れていた本が山積みになっているので、しばらく新刊書は買わずにおこうと心に決めていたのに、この二日で四冊の文庫、新書を買ってしまった。
松岡正剛『フラジャイル──弱さからの出発』。
この人の文庫本は『遊学Ⅰ』『遊学Ⅱ』『花鳥風月の科学』がいずれも囓りかけのままになっている(『ルナティックス』は買い忘れていた)。
『花鳥風月』は「山」「道」「神」「風」「鳥」の基礎篇まで読んでいて、これから「花」「仏」の応用編、「時」「夢」「月」の本質篇へ進もうかというところで中断していた。
この人の文章は刺激的な情報がぎっしりつまっているのに淡泊で平明で、その平明さが読み進めていくうちに眠気を誘うところがあって、一気に読み通すことができない。
『フラジャイル』は前から一度読みたいと思っていた。
あとがきに出てくる「勝者の演劇性よりも弱者の物語性」という言葉が気になる。
高橋睦郎さんの解説「弱々しくあることの勧め」に、松岡正剛の興味の向かう範囲は広範だが、その興味の持ちかたはエウクリデスの天体図と桑田佳祐の新曲とでまったく同じ比重なのだ、その平等ぶりは地上に降りた人の子の「神の目」的平等とでも呼びたくなる体のものだと書いてあった。
松岡正剛の文書がもつ独特の「平板さ」のよってきたるところを的確に表現している。


荒俣宏『「歌枕」謎ときの旅──歌われた幻想の地へ』。
神戸の図書館で歌論、連歌論関係の本を物色しているうち、最近店頭でみかけて思わず手を出しそうになったことを思い出した。で、結局買ったわけだ。
「歌枕にうたわれた土地は実在しない」。歌枕とは「現地へ行かないで現地の雰囲気を出すための文学的発明品」である。
だから「行く必要のない歌枕を、あえて旅するということはつまり、歴史的であり同時に霊的な巡礼へのいざないであった」。
昨年暮れに出た明石散人・篠田正浩『日本史鑑定──天皇と日本文化』ともども、中世芸道論研究の副読本として(いつかそのうち)読もう。


本村凌二多神教一神教──古代地中海世界の宗教ドラマ』。
あとがきに、三十年におよぶ古代史研究のなかで「つねづね訝しく思っていたことがある。
それは古代の作品のなかでも古いものになればなるほど、なぜ神々の世界があれほど身近に感じられたのかという点である」と書いてあるのを読んで、かの『神々の沈黙』を連想した。
もしやと思って巻末の参考文献を見てみると、ちゃんと掲げてある。
この人の本は『ローマ人の愛と性』を読んだことがある。あれはとても面白かった。


並べて書くのは気が引けるが、草凪優『性純ナース』を買って即読了。
記憶喪失の男が海辺のクリニックで女医と二人のナースになかば囲われるというシチュエーションはどこか「神話的」な雰囲気を漂わせていて面白いが、その後のストーリーの展開がイマイチ。
夜『あの子を探して』と『セロニアス・モンク THELONIOUS MONK STRAIGHT NO CHASER』を続けて観た。
淡い感動と深い感銘。