『物質と記憶』(第7回)

物質と記憶』の独り読書会。
今日は第一章六節「イマージュと実在」と七節「イマージュと感情的感覚」を熟読し、八節「感情的感覚の本性」と九節「感情的感覚から切りはなされたイマージュ」と十節「イマージュ本来のひろがり」を通読した。
知覚と表象をめぐる「反射説」(ベルクソン=常識的直観)と「投射説」(心理学者=悟性)の対立と後者の誤謬が事実に即して執拗に説かれる。
新たに感情(感情的感覚)という語彙が登場し、感情と知覚の本性は異なること(「私の知覚は私の身体の外にあり、反対に私の感情は私の身体の内にある」66頁)が論証される。
そして、純粋知覚の理論に「最初の修正」(67頁)が加えられる。
すなわち「感情は知覚がつくられるための原料ではない。それはむしろ混入する不純物なのだ」(68頁)。


知覚(perception)と感覚(sensation)と感情(affection)の関係がよく分からなくなった。
ベルクソンは感情の例として苦痛を挙げている。
強すぎる感覚は身体の局所に苦痛をもたらす。
それが感情(「感覚性神経における一種の動的傾向」64頁)である。
この例が分かりにくいのかもしれない。
頻繁に出てくる「現実的」と「可能的」と「潜在的」の概念の違いもよく分からなくなった。
たとえば次の文章。

したがって私たちの感覚の知覚にたいする関係は、私たちの身体の現実的活動の、可能的ないし潜在的活動にたいする関係にひとしい。その可能的活動は他の諸対象に関連し、これら諸対象において現出する。その現実的活動はそれ自身に関係し、したがってそれの内に現出する。つまるところ、万事はあたかも現実的および潜在的作用が、その及ぶ点や原点へ真に復帰することによって、外的イマージュは私たちの身体から周囲の空間の中へ反射され、現実的活動はこの身体によってその実質の内部にとどめられるかのようだろう。またそれゆえにこそ、身体の表面、すなわち内部と外部の共有する境界は、知覚されると同時に感じられもする唯一の延長部分なのである。(66頁)

潜在的─現実的の系列(内的感情)と可能的─現実的の系列(外的知覚)の区分は見てとれるがおぼろげである。
このことは次回、純粋知覚の理論の要約(71頁〜)を熟読するなかで反芻してみよう。
ベルクソンが投射説になげかけた「不可分的延長と等質的空間との形而上学的混同」(55頁)という批判の実質もあわせてフォローすることにしよう。