『バルバラ異界』

東京で見損ねた『ベルリンの至宝展』を神戸市立博物館に見に行く。
明日が最終日。それなりに人が多くて、じっくり時間をかける余裕がなかった。
「祭壇の浮彫:太陽神アテンとアクエンアテン王の家族 前1345年頃」「アプリア製渦巻型クラテル:巨人族との戦い(ギガントマキア) 前350‐前325年」「サンドロ・ボッティチェリ“ヴィーナス” 1485年頃」の三枚の絵葉書を買って、小一時間ほどで会場を出た。
クルト・シュテーフィングの肖像画「フリードリッヒ・ニーチェ」(1894年)がよかった。


     ※
萩尾望都バルバラ異界』全4巻を読了。
バルバラの謎が明かされる最終巻を読んでいる間、とりわけ夢先案内人・渡会時夫の記憶が上書きされていく場面では、私自身の脳内過程が二重化されたかのような眩暈に襲われ、軽い頭痛と嘔吐感をさえ感じた。読み終えた刹那、一瞬のことだったけれど、目に見える部屋の情景が夢の世界の出来事のように思えた。
北方キリヤへのトキオの思いが切なく迫ってくる。自我の孤独と「ひとつになること」。
記憶の「上書き」というと、ボードレールが『人工楽園』で人間の脳髄や記憶に準えた「パランプセスト」(書かれた文字を抹消して重ね書きされた羊皮紙)を想起する。
夢と現実の重ね描き。ここで「夢」とは「未来」(死後の世界)のことで、エズラ・ストラディの語るところによると、「人間のもつ抽象思考能力は未来の出来事に影響をおよぼす いわばみる夢は──実現するのだ」(第4巻60頁)。
この言葉はこの作品そのものの成り立ちを告げている。
いや、漫画そのものがパランプセストなのだ(あるいは日本の藝能、文藝に通底するものとしてのパランプセスト)。
岡野玲子の『陰陽師』と萩尾望都の『バルバラ異界』。
同時期に完成したこの二つの作品世界を縦横に遊弋し、そこに重ね描かれた観念や形象を存分に論じきった批評を読みたい(書きたい)。
とりあえず『バルバラ異界』については、先の抽象思考能力云々と死者の心臓に宿る記憶物質(福岡伸一『もう牛を食べても安心か』を参照すべし)、そしてケルトが手掛かりになる。
「わたしの一族の発生は古い エルベ川ぞいで鉱脈をさがしながらヨーロッパを南下したケルトの古い末えいだ……男も女も早く老いた 20歳をすぎると老人になった 背も低く そう…「白雪姫と七人の小人」の物語の鉱脈堀りの小人のような ハハハ…」(同53頁)。