『歌舞伎と操り浄瑠璃』─「うた」と「語り」、舞踊と「しぐさ」

 絶不調を通り越して、ほとんど死に体の状態が続いている。梅雨時の空のように、頭の中に重たい雲が垂れ込めて、体には黴がはりついている。心はすっかり干からびている。
 今日、雨があがった午後の公園を操り人形のように直線状に歩行し、図書館で和辻哲郎の『歌舞伎と操り浄瑠璃』を借りてきた。岩波版全集の第十六巻、七百頁に及ぶ大著で、和辻の作品で三番目に長いもの。昭和三十年初刊時の書名は『日本芸術史研究 第一巻(歌舞伎と操浄瑠璃)』。
 序と第一篇の冒頭を読んだ。梅雨の晴れ間の清清しい涼風のように、私の頭と体と心がすっかり更新された。そう書いておきたいところだが、「すっかり更新」されるかどうかは、もう少し先まで読み進めてみないとわからない。第一、このまま最後まで通読できるかどうかもわからない。
 と、否定的なことばかり書いていてもしかたがないので、今日ざっと眺めたところから、気に入った箇所を抜書きしておく。


浄瑠璃は、まず第一に、平家がたりのような叙事詩朗唱の伝統をうけ、そうしてその伝統をみずから重んじている。もちろん浄瑠璃浄瑠璃として立ち始めたときには、在来の伝統の上に根本的な変革が加わったであろう。その変革は、抒情詩をうたうという歌謡としての要素を強度に注入し、それと結びついて三味線による音楽的な性格を全面的に浸潤させることであったであろう。しかしそういう変革にもかかわらず、浄瑠璃は決して物語を「語る」という立場を捨てたのではない。浄瑠璃は「歌う」のではない、「語る」のだということは、この技を学ぼうとするものに対しても、またそれを鑑賞しようとするものに対しても、常に警告されていたことである。このように「語る」ということを、すなわち叙事詩朗唱の伝統を、堅く守っていたということが、何よりもまず浄瑠璃の特徴に数えられてよいであろう。
 しかし第二に、この伝統に対して加えられた変革も、決して軽視することを許さないほど重要なものである。三味線やその小唄の節による浄瑠璃節の変貌は、恐らく当時の人を驚かすに足りたであろう。それは人をして浄瑠璃節は「語る」のではなくして「歌う」のであると誤認させるほどに、強度に音楽的性格を帯びていたであろう。だからこそ「歌う」のではなくして「語る」のであるということを、わざわざことわらなくてはならなくなったのである。とすれば、浄瑠璃は、「語る」のか「歌う」のかの区別が素人に明らかでないほどに、叙事詩朗唱のぎりぎりの限界点にまでに達していたのである。そうなると、在来の代表的な演芸であった能楽の、謡を「うたう」態度と、浄瑠璃を「語る」態度とは、ただ一歩の差違に過ぎなくなった。従って浄瑠璃に伴って演技する人形も、謡に従って演技する能役者と、ただ一歩の差違に過ぎない。いずれも音楽的表現に即して形象的表現をやるのである。悲しみの歌が耳に響いてくる時には、悲しい姿が眼に見える。そういう楽劇として、操り浄瑠璃能楽とは、ほとんど同じ立場に立っていたのである。
 がそれにもかかわらず、第三に、浄瑠璃は「語る」立場を固守し、それによって人形の演技を明白に能役者の演技から分離せしめた。浄瑠璃叙事詩的な描写は、謡曲の抒情詩的詠嘆よりも、一層具体的に人間の出来事を取り扱うことができる。そうしてそれを舞台上に表現する場合に、「うた」に伴う演技はおのずから舞踊になって行くに対して、「語られる」人間の動作はおのずからしぐさとなってくるであろう。だから人形の演技は、生きた能役者の演技よりも、一層具体的に、また写実的に、人間の生活を表現することとなったのである。》(『和辻哲郎全集 第十六巻』54-55頁)


 この引用文のすぐ後で、「が、これらの特徴だけでは、操り浄瑠璃が何ゆえに世人をあっと言わせたかのゆえんがわからない。そうしてその点が最も重要なのである」と和辻は書いている。そこから先がとても面白いのだが、今日のところはここまで。