永井均さんの講演

 大阪大学文学部哲学・思想文化学の「ラジオ・メタフィジカ」に、永井均さんの講演録「意識の神秘は存在するか」が格納されている
 最近、岩波から刊行された『なぜ意識は実在しないのか』の序文に、「これは、…本書を「台本」として読まれる方にとって、実演の見本として役立つでしょう。もちろん、別の観点から語られた、かなり大雑把な論旨の要約としても、役立つはずです。」というコメント付きで紹介されていた。
 で、『なぜ意識は実在しないのか』にひととおり目を通してから、聞いてみた。とても面白かった。
 講演の最後、質疑応答のなかで、この〈私〉がゾンビになること、つまり〈私〉からクオリアがなくなることが、世界の中の《私》から意識がなくなることに読み替えられる、ということが語られている。これが、『なぜ意識は実在しないのか』の「かなり大雑把な論旨の要約」、というか、そのキモになっていると思う。
 以下に、講演録の84分10秒目あたりから86分30秒目あたりまでの要点を、書き留めておく。


《世界のなかには、どういうわけだか知らないけれど、私であるという特殊なあり方をしたやつが一人だけいて、そいつがそのあり方を捨てて普通の人間になることが、ゾンビという概念を理解するための唯一のてがかりであると思う。
 が、そのことを言うと、不思議なことにみんながそれを理解するわけだから、そうすると、世界のなかにただ一人だけと言ったそばからそれを否定する議論が出てくる。少なくとも、言葉で言うかぎりは。
 そしてそのことによって、客観的なゾンビというものが可能になるかのような感じになる。客観的というのは、世の中に人間がたくさんいるなかで、意識というものがひょっとしたらないやつがいるかもしれないという話に読みかえられるということ。
 でも、本当はそういう問題じゃない。私というのは世界で一人しかいなくて、そいつがそのあり方を捨ててほかの人間と同じようになる(永井さんという人はいるけれど、私じゃなくなる)ということが言われているはずなのに、そのことを言葉で言ったときには誰もが理解する言葉になって、ひとつの共通世界の中でそういうこと(意識がなくなること)が起こるというふうに理解される。
 世界に内化されて心身問題化される。あたかもクオリアや意識というものがあって、それが着脱される、つまり消えたり与えられたりするということを考えているかのように映現するというあり方をしている。
 だから、意識の神秘というのは、それ自体としては存在しない。そのようなかたちで、つまり意識の神秘があるかのように現われる。》


 『なぜ意識は実在しないのか』については、そこで語られる「累進構造」が、新宮一成さんの『夢分析』に出てくるそれとパラレルなのではないかと思いあたったことと、そこに出てくる「第○次内包・第一次内包・第二次内包」という概念が、ラカン現実界想像界象徴界やパースの三分法とパラレルではないかと思いあたったこと、この二点だけを書いておく。
 このことは、いつかまた書くつもりだが、その前に、『なぜ意識は実在しないのか』を繰り返し読み返してみなければならない。