大森荘蔵

『神々の沈黙』が面白くなってきた。
まだ第一部第一章までだけれど、少しわくわくしかけている。
このままうまくのれたら、買いためるだけで手をつけずにおいた関連本を一気に読み漁ってみたい。
訳者あとがきに出てきた『ユーザーイリュージョン──意識という幻想』を借りようと図書館へ出かけたが見つからず、そのかわりジョン・ホーガン『科学を捨て、神秘へと向かう理性』(竹内薫訳)と茂木健一郎『脳の中の小さな神々』を借りた。
いずれも昨年買いそびれ読みのがした本。
そもそも心脳問題にかくも関心をいだくようになったきっかけが竹内薫茂木健一郎の共著『トンデモ科学の世界』で、この本を読んでペンローズの『皇帝の新しい心』に進んだ。
神戸の中央図書館から元町の大丸へ、ジャケットと靴を買って帰宅。
行き帰りの電車の中で『キリスト教邪教です!』を半分ほど読む。この文体は悪くない。


垂水のドトール大森荘蔵の「ことだま論」後半を読む。
『時間と自我』の「はしがき」に、過去とは夢物語であり「限りなく無意味に近い制作物ではあるまいか、こうした恐怖を感じさせる奈落に面しては立ちすくむ以外にはない」(8頁)と書いてあった。
『時間と存在』の「はじめに」では「これまで度々経験したことだが、自分で出した奇怪な考え[ここでは「自然科学的世界の空性」という結論]に馴れるのにかなりの年月が必要だろう」(13頁)と書いてあった。
あわせて池田晶子さんの「埴谷雄高大森荘蔵」に次のように書いてあったのを思い出す。

 物質は「実在」しない、過去もまた「実在」しない、それらは全て、言語によって制作された「存在の意味」なのだ、と落としどころに見事に落とす大森の論理の運びは痛快である。分析哲学者ならずとも、快哉を叫んだ人は多いと思う。けれども、快哉を叫んでいるこの自分は、すると、いったい「どこ」に立っているのか。足下に開いたでっかい暗い黒い穴ぼこ、これはいったいなんなんだ、いったいどうしろと言うのだ。
 このような感性と、そのような問いを、そもそも所有していないことが研究者ということなのだということを私は理解していたので、研究会後の飲み会の席で、こっそり尋ねたことがある。先生、率直なところ、どのようにお感じなのですか、と。
 彼は、一瞬の沈黙のあと、いつものきっぱりとした口調で、こう言った。
 「ゾッとします」(『魂を考える』91-92頁)