デタッチメント

茂木健一郎さんが『中央公論』6月号に「なぜナショナリズムは相互理解されないか」という文章を寄せている。
なぜいまこのような論考が発表されたかは言わずもがなだが、脳科学の立場から世俗や世相や事件を切る(説明する)といった浅薄なものではない。
茂木さんがそんなバカな文章を書くはずがない。
1993年の式年遷宮の際、伊勢神宮を初めて訪れた茂木氏は言葉で表現できない衝撃を受けた。

とりわけ、内宮の「唯一神明造り」の様式には、深い感動を覚えた。従来、日本的とはこういうものであるとか、神社とはこのような場所であるとか、そのような安易な思いこみのすべてを壊す、至上の何かがそこにあることが確信された。まるで、宇宙の中にこれまで存在していなかった光り輝く元素の誕生の瞬間に立ち会っているように感じられた。(略)伊勢にある何かとてつもなく大切なもの。しかし、それに名前を付けて何の意味があろう。名付ければ陳腐になるだけである。その名付け得ぬものが、私の愛国心の核心にあるが、それは同時に「日本」を超えた普遍的なものでもあるはずである。

この特殊性と普遍性を結ぶ回路の話は『脳と創造性』のキモの部分につながる。
(ついでに書いておくと、ブルーバックス『知能の謎』の序論で「メイン筆者」の瀬名秀明さんが柄谷行人由来の「一般性──特殊性」と「普遍性──単独性」に関連づけて「普遍性の中に個性がある」云々と書いている。
そういえばこの本も読みかけのままだった。)
名付けをめぐる問題は『神々の沈黙』第一部に出てきた言語進化(呼び声⇒修飾語⇒命令⇒名詞⇒名前)の話題と関係する。
いずれも「科学的思考」の実質に関連するものだ(と思う)。
この論文のことにふれたのは、「科学のすばらしさは、対象に対して認知的距離(ディタッチメント)をもって接することができる点にこそある」という箇所を抜き書きしておきたかったからで、それは先月読んだ上野修さんの「スピノザから見える不思議な光景」に出てきた「彼の哲学はそんな籠絡[自分の努力で運動していると思っている石の自由意思への固執]からの静かなデタッチメントを教えてくれる」という言葉と響きあっている。