『神々の沈黙』第一部

『神々の沈黙』第一部を読み終えた。面白い。
「遠い昔、人間の心は、命令を下す「神」と呼ばれる部分[右利きの人にとっては右脳]と、それに従う「人間」と呼ばれる部分[同じく左脳]に二分されていた」。
そして「どちらの部分も意識されなかった」(109頁)。
なぜなら意識は約三千年前、言語表現の比喩機能(投影連想)によって生成された(78頁)からだ。
著者ジュリアン・ジェインズのこの仮説の論拠は『イーリアス』の登場人物たちには主観的な意識も心も魂も意思もなかったことと、側頭葉損傷による癲癇患者を対象としたペンフィールドらの実験結果にある。
論証は緻密ではない。ほのめかしにとどまっている。
それでも、ここで主張されている「二分心」の説には説得されてしまう。
神の内在と超越。
今後、神という語彙が使われた文章すべてに影響しそうな気がする。
同時に読んだ古東哲明さんの『現代思想としてのギリシア哲学』第四章に出てくるシャーマンとしてのソクラテス、ダイモーン的人間としてのソクラテスはほとんど「二分心」の精神構造をもったミケーネ人(『イーリアス』の英雄)と同等だ。


補遺の一。
『神々の沈黙』第一部を読み終えて、信原幸弘『考える脳・考えない脳』を想起した。
信原さんはそこで、脳は「構文論的構造を欠くニューロン群の興奮パターンの変形装置」であって「そのような変形をつうじて、外部の環境のなかに外的表象を作り出し、それを操作することもできる」、つまり「構文論的構造をもつ表象の操作としての思考は、この[脳と身体と環境からなる]大きなシステム全体によって産み出される」と結論づけていた。
補遺の二。
そもそも意識は脳の中にはない。
意識を紡ぎ出すのは脳の機能かもしれないけれど、少なくとも脳の中には意識はない。
たとえば茂木氏のいう「脳内現象」は「(物質としての)脳の中の現象」ではない。
言葉というものは脳から出力されるが、出力され記録された言葉は脳の外にある。
そして、意識は言葉にスーパービーンする。
上野修さんが『スピノザの世界』で書いている。
「一般に、下位レベルでの物質諸部分が協同してある種の自律的なパターンを局所に実現しているとき、その上に(現代風に言うなら)上位の個物ないし個体特性がスーパービーン(併発)している。」(116頁)


余録。
養老孟司さんが毎日新聞(4月17日)で『神々の沈黙』の書評(「脳の右半球は何をしているのか」)を書いている。以下、抜粋。

 意識の問題は、脳科学の暗黙の中心的なテーマである。いちばん新しい意識に関する総説を探して、著者の本が引用されているかどうかを見たが、されていなかった。脳科学の現役の研究者は、人にもよるだろうが、だから読まない可能性がある。脳の左右半球に関する知見も、著者の時代からかなり変わってきたからである。その点では、私自身の意見も、著者とは異なっている。
 しかしこの本の価値は、そういう点に依存するのではない。現代社会をまさに「支配する」意識、それが歴史的な時代になってはじめて出現したという議論が傾聴に値するのである。日本史の例でいうなら、本居宣長を想起する人もあろう。現代における「意識中心主義」は、ほとんど病膏肓の域に達している。科学はまさに意識以外のものを否定する。意識以外のものがあるなら、それは「意識化されなければならない」からである。それが蔓延した社会で「理科系の大学院まで出たのになぜ」というオウム真理教事件が起こる。意識中心主義を詰めていったら、本当にオウムは生じないのか。オウム事件の被害者、加害者は、果たして意識的理解によって救われるのだろうか。
 著者の書物もまた、現代意識の産物である。しかし著者はそれを「知っている」。そこが重大な点なのである。近代意識の前提は、自分がなにをしているのか、各人がそれを知っているということである。近代科学者は本当にそれを「知っている」のであろうか。