『空港にて』『昭和歌謡大全集』

諸星大二郎孔子暗黒伝』を買った。
昨年、集英社文庫から出た二冊の自選短編集(『彼方より』『汝、神になれ鬼になれ』)はとにかく素晴らしかった。
あと一冊残った『暗黒神話』もいずれ買って読むことだろう。
諸星大二郎のデビュー作「不安の立像」は(たぶん)リアルタイムで読んだと思うし、77年から78年にかけて『孔子暗黒伝』が週刊少年ジャンプに連載されていたのも(たぶん)見知っていたはず。
山崎浩一が解説エッセイ「麻薬的諸星ワールド」を書いていて、大友克洋の「高度に洗練されたタッチ」と諸星大二郎の「シュールレアリスム水墨画もどきのタッチ」を比較している。
「この二人は同時代のマンガ界に生まれた、一見似ても似つかない二卵性双生児なのだ」。
本箱に息子が残していった『AKIRA』全6巻が読まずに置いてある。
二十年遅れで二人の天才の世界に同時並行的に浸ってみよう。
図書館と書店めぐりを終えて夕方帰宅すると、富士ゼロックスの『グラフィケーション』が届いていた。
最新号が地域通貨を特集していると知ってインターネットで購読を申し込んでいたら、早速バックナンバーとあわせて三冊送られてきた。
この広報誌は以前、職場で読んでいたことがある。
『増刊現代農業』と『ソトコト』の先駆けのような記事が掲載されていたように記憶している。


夜、村上龍の『空港にて』と『昭和歌謡大全集』の二冊をほぼ同時に読了。
『空港にて』は素晴らしかった。
開高健の短編を読んで以来のここちよい精神の緊張を味わった。
小説は描写である。すべてはこの言葉に尽きている。
「この短編集には、それぞれの登場人物固有の希望を書き込みたかった」と作家はあとがきに書いている。
「他人と共有することのできない個別の希望」を描写することは、ほとんど小説にできることの限界を超えている。
昭和歌謡大全集』は93年6月から94年2月まで「週刊プレイボーイ」に連載された作品で、この時期と連載誌、そしてそのときの作者の年齢がこの作品の性格というか村上龍の活動の中での位置づけをかなり規定しているように思った。
でも考えてみればそれはあたりまえの話で、作家は多かれ少なかれその時代と発表媒体(読者層)を念頭において作品を書いている。
このことはとくに村上龍の場合に重要なポイントだと思う。
好きな小説ではない(中条省平さんだったと思うが「怪作」の一言で片づけていた)が、どこか松本大洋のマンガを思わせる作品世界は印象に残る。
松本大洋のマンガは『半島を出よ』を読んだときも頭に浮かんだ。
あの作品はこれまで村上龍が書いたすべてとはいわないまでもほとんどの小説世界の「気分」のようなものが総動員されている。
だから同じイシハラやノブエが登場する場面で同じ印象をもったとしてもおかしくはない。
(イシハラとノブエは『昭和歌謡大全集』では「高校の同級生だった」が、『半島を出よ』ではイシハラが49歳、ノブエが55歳になっている。)