『ハイデガー拾い読み』『はじめて読むニーチェ』

木田元ハイデガー拾い読み』の第8章「「世界内存在」再考」と第9章「専門的常識の誤り」を読む。
今道友信氏によると、岡倉天心の『茶の本』に荘子の「処世」を「Being In The Word」と英訳した箇所があって、そのドイツ語訳「Sein in der Welt」をハイデガー剽窃して「In-der-Welt-Sein」としたのではないかという疑惑がある。
存在と時間』の刊行(1927年)に先立つ1919年、今道氏の恩師伊藤吉之助がハイデガーに「Das Buch von Tee」をプレゼントしたというのがその論拠。
木田元さんは、用語についてはそういうことがあったかもしれないけれど、「世界内存在」という概念そのものをハイデガー荘子なり天心から学んだかどうかは疑問としめくくっている。
第9章に出てくる二つの話題、イデアリスムスとレアリスムス、トランスツェンデンタールという語をめぐるハイデガー講義録からの議論の紹介も面白かった。
勢いで最終章を読みかけたけれど、一気に読んではいけないと自粛。
この本には半年間楽しませてもらった。もう少し長引かせよう。


続いて湯山光俊『はじめて読むニーチェ』の第二章「フリードリッヒ・ニーチェの思想──「発見」と「発明」」を少し読む。
俄然面白くなってきた。
昨晩、第一章「フリードリッヒ・ニーチェ年代記──「三段の変化」」と第三章「フリードリッヒ・ニーチェの主要作品」を読んだ。
年代記」は、『ツァラトゥストラ』に出てくる精神の三つの変化に準えた駱駝の時代・獅子の時代・幼子の時代の三区分にそってニーチェの生涯をたどろうというもので、趣向は面白いがそれが十分にいかしきれていない印象を受けた。
ヴァーグナー・コージマ・ニーチェとレー・ルー・ニーチェの二つの神話的三角関係をめぐる叙述もやや物足りない。
やっぱり本書は第二章がすべて。
ここに「年代記」や「主要作品」も取り込んでふくらませ、ニーチェ自身の文章もふんだんに引用して叙述を充実させれば、もっとすごい本になったのではないかと思う。