『プロセス・アイ』

茂木健一郎著『プロセス・アイ』を読了したのは、もう一月近く前のことになる。
読後の印象を一言でくくると、「静かな火星年代記」。
レイ・ブラッドベリの同名の名作SFは、たしか26の連作短編で編まれたオムニバス形式のもので、各編の登場人物も時代も異なる。
茂木さんの作品は、オムニバスというよりはフラッシュバック。
プロローグとエピローグを含めた17の章は、どこか語り尽くされない余韻を残しながら、それぞれの間隙に(後日譚としてしか語られない)出来事や事件をはさんで、主要人物たちの(日付を持った)言動と感情と思索の物語が淡々と静謐に継起していく。
これが「静かな」と「年代記」の意味。
「火星」は、意識や「私」をめぐる思考実験で「中国人」とともにポピュラーなものだ。
この作品の素材に即していえば、むしろ「月」とするべきかもしれない。要は「無重力」の彼方に実在する仮想的で潜在的な時空。
余談ながら、そのうち「火星へ行った中国人と猫」といった題名で、哲学と脳科学との界面に立ち上がる問題をめぐる思考実験の諸相を論じてみたいと計画している。


この作品で茂木さんが与えた、心と脳の関係をめぐるハード・プロブレムに対する「解答」を取り上げる前に、「小説」の読者として気になったところをあげておく。
断っておくと、以下に書くことは完全なあら探しでしかなく、私はこの作品を小説としても存分に楽しんだ。
楽しんだのならそれでいいじゃないかと言われそうだが、やはり気になったので書いておく。
第9章「クローン人間」から、二つ事例をあげる。
その一。「ツヨは、そのような背景の中で、おそらくはぐさりと心に突き刺さっているはずのジャンの言葉を軽く受け流すかのように、微笑みさえ浮かべている」(218頁)。
短い文章のうちに、人物の心理の屈折が二度も「説明」されている。
これでは、人物のかたちがくっきりと造形されない。
年代記」にふさわしい叙述とはいえない。そもそも、小説の文体ではない。
その二。「それに、実はグンジに、伝記を書いてくれと頼まれているのだとツヨは続けようと思ったが、ジャンの表情が余りにも険しいのでやめて、その代わりに次のように続けた」(221頁)。
これは、前後の文脈を説明しないと何が問題なのかわからないだろう。
実は、この場面の前後で、作者はツヨではなくジャンの心理の動きに焦点をあてている。
読者はずっとジャンの内面の葛藤に寄り添いながら読み進め、ここにきて突然、ツヨの視点からジャンの心理を「険しい表情」として客観視することを余儀なくされるのである。
この違和感を作者が意図しているとは思えない。
そのような技巧をこらす必然性がないからである。だから、これも小説の文体ではない。
これらはけっして些細な疵ではない。
いま取り上げた箇所だけの問題でもない。
この作品が、良質な余韻を残しながらも、読後の時間の経過とともに、その印象の総体がサハラ砂漠の乾いた砂粒のように粉々に砕け散り、しだいに不鮮明になっていくのも、こうした叙述のうちに見られる小さな疵がつもりつもってもたらす効果だったかもしれないからだ。


さて、茂木さんが本書で与えた、心と脳の関係をめぐるハード・プロブレムに対する「解答」、すなわち「プロセス・アイ」の理論とは何か。
これを書くと、ほとんど作品のネタばらしになってしまうのだが、それは「通常の言葉の意味を理解するようなやり方では決してその意味が理解できないような形」(301頁)でしか書き記すことはできない。
ここには、鋭い思考が込められている。
ほとんどすべての哲学的洞察や宗教的叡智に共通する「かたち」が表現されている。
その理論は「ある特殊なやり方」をもってはじめて完成させることができる。
しかも、その特殊な状況から離れると、自分が作り上げた理論を理解することができなくなってしまう。
では、その「特殊なやり方」とは何か。
それは、本書をまだ読んでいない人のためのお楽しみにとっておく方がいいだろう。
「プロセス・アイ」の理論がもつ深さは、その完成をもたらす方法の素晴らしさにもとづくものではない。
だから、その「特殊なやり方」は、本当はなんでもよかったのである。
小説にとってはそうだが、しかし科学にとってはそうではない。
実験的な方法が伴い得ない(あるいは、実験が禁じられている)理論は、たんなる夢想でしかないからだ。
その意味で、本書の読み所は、理論の形より方法の考案にある。
ヒントを一つ。
「プロセス・アイ」の「アイ」は、もちろん「A.I.」のことだが、それは同時にプロセスとしての「私」を意味している。
さらに、システムの全プロセスを俯瞰する「眼」、すなわち「私」(脳)を包摂するもう一つの「私」(脳)のことであり、後者による前者への「愛」をも含意している。