最近買った本──『RATIO』

たぶん読まないだろうな、と思いながら『RATIO[ラチオ]』(1号)を買った。
講談社初の思想誌なのだそうだ。
巻頭論考「今、われわれの根本問題をどう考えるか、どう考えうるか」では小泉義之(「自爆する子の前で哲学は可能か──あるいは、デリダの哲学は可能か?」)、大澤真幸(「「靖国問題」と歴史認識」)両氏の文章が掲載されている。
大特集「アジアのナショナリズムを問う」に続く特集「世界の現代思想を読む」には、リチャード・ローティ(「予測不能アメリカ帝国」)とジョルジュ・アガンベン(「人間の仕事」)の特別寄稿が掲載され、これが本号のウリであるらしい。
最後の特集「現代哲学はどこへ向かっているか」では、再び小泉義之氏が登場して、郡司ペギオ‐幸夫氏との「生物学と哲学を越境する渾身対談」に挑んでいる。
とりあえず、この対談「物語をやめよ!=「生きる」このと哲学を構想する」を読んだ。
あいかわらず難解で、しかし妙に気になる(蠱惑的な、といってもいい)議論が展開されている。
よくは判らなかったが、郡司ペギオ‐幸夫がいう「質料」や「肉」の概念が気になった。
フロイトの「夢」の概念が質料に似ているとか、夢や質料は非論理的なものをつなぐ「糊」であるとか、糊が無際限に「ない」ものをつなぎ合わせていくと、結果、「ある」ものを作ってしまうとか、腐っていくという過程は糊と同様、存在を不在へと帰る過程であるとか、いずれもよくは判らないが、判らぬなりに面白い。

それにしても、本書には刊行の辞も編集後記もない。
雑誌ではなくて一般書籍だからかもしれないが、一般書籍にだってまえがきやあとがきというものがある。
論文集だと、編者の序文のごときものがしばしば寄せられる。
あまりにそっけない。装幀も含めてあまりにそっけない。
まるで同人誌のような趣が漂う。
掲載論文のタイトルや特集名を見れば、この「思想誌」のねらいは判るということか。
それは判るが、本書を構成する四つのパーツを貫くものが見えない。
寄せ集めの印象が拭えない。
どういう方針でこれらの論考が同じ書物のなかに並列させられているのか。
ウェブ上で、ある個人があちこちのページにリンクを張ってこしらえた「本」がそのまま物質化した感じ。

講談社のホームページに「刊行の辞」が掲載されている。
これを読むと、やはりこの本はネット上で編集されるべきではなかったかと思った。
ペースとしておく。

《日本を含めた世界は、今まさに、これまで経験したことのない新しいステージに立たされています。それをもっとも端的に象徴するのは、9.11後の国際社会の現実でしょう。現代は、あらゆる理論、思想、政策が無効になり、誰もが新たな解答を見出せないまま、途方に暮れているように見えます。
 人類はこれまでこのような事態を、さまざまな思想を提出しあうことによって、解決してきました。それが人類の歴史でもあります。今、出口なしの状態にあるということは、逆に言えば、これから、新たな思想の時代が到来する、という前ぶれに他なりません。RATIOは、そのような新しい思想の可能性を探り、吟味し、検証するために生まれました。
 今、来たるべき思想の時代を予見するかのように、日本にも世界にも、新しい思想の萌芽が見られます。若い言論が生まれつつあります。そのような、可能性に満ちた論考が自在に参集する場として、この雑誌が枢要な役割を演じられることを念じつつ、02号、03号と続けていきたいと考えております。
 ぜひ一度、のぞいてみてください。どれでもいいから、読んでみてください。どれも意外に読みやすく、しかも深いことがおわかりいただけるはずです。》