『物質と記憶』(第23回・補遺)

とうとう、アンリ・ベルクソンジル・ドゥルーズ編『記憶と生』(前田英樹訳)を買った。
物質と記憶』の副読本として、ドゥルーズの『ベルクソンの哲学』(宇波彰訳)を常備し、折にふれて部分読みや流し読みをしている。
でも、ドゥルーズの文章は「雰囲気」は濃厚に伝わるのだが、なかなか腑に落ちない。
随所にちりばめられた決め言葉は実に鋭く、簡潔に概念を言い表していると思うのだが、これをどう希釈すればいいのか手がかりがつかめない。
希釈などしなくていいのかもしれないが、そのままだと濃縮されすぎていて、「実用」に向かないのだ。
たとえば、「持続は本質的に記憶であり、意識であり、自由である。そして持続が意識であり自由であるのは、それがまず第一に記憶だからである」(51頁)。
これなど、ほとんど『物質と記憶』の全議論を一言で要約している。
しかし、哲学の議論を要約してみたところで、それはなんの役にも立たない。
出来合の砂糖水を労せず飲むようなものだ。
ベルクソンを知りたければ、ベルクソンを読まなければならない。
ドゥルーズによる選文集『記憶と生』は、ベルクソンの主要著作(7冊)からの抜粋(77篇)を組み合わせ、これらにタイトルを含めて章節の結構を与えた「ベルクソン自身のもうひとつの主著」(訳者まえがき)である。
物質と記憶』の独り読書会が、最後の最後で「頓挫」しかかっている。
この際、いったん単独のテキストから離れて、前田英樹いうところの、ドゥルーズが自らの出発点に打ち込み生涯変わらず保持しつづけた「ベルクソニスムという楔の形」なるものを味読してみようか。
前田氏は「ひとつの節ごとを、節と節との繋がりを、ごくゆっくりと読んでもらいたい」と書いている。
「そうすれば、ドゥルーズの考案したタイトルの総体が、いかに驚くべきものかも、だんだんとわかってくる」。
この「ゆっくりと」読むこと、「だんだんと」わかってくることが、哲学書を読む秘訣であり、醍醐味だろう。
私(水)のうちに思考(砂糖)が浸透し、私が私でないもの(砂糖水)に成ること。