『関係としての自己』

単行本も一冊買うと癖になる。
先週の『モデルニテ・バロック』に続いて、昨日、木村敏の論文集『関係としての自己』を海文堂書店で買った。
岡山の美星町というところへ伯父の葬儀に出かけた帰りの電車の中で書き下ろしの序論を読んだ。
短いけれど濃密な思考が凝縮された文章で、『時間と自己』以来の読後の興奮を予感させる。


ニーチェが自己(ゼルプスト)と呼びフロイトエスと呼んだもの。
一人称的な意識的自我と非人称的な無意識(動物的本能)、アクチュアリティ(現勢態)とヴァーチュアリティ(潜勢態)、そしてアポロン的ビオス(個体的生存/個の側の死すべき生)とディオニューソス的ゾーエー(集合的生命/種の側の死を知らぬ生)とのあいだの「生命論的差異」を媒介するはたらき、関係としての自己=身体。

…一方で個別的自我に接続しながら(そのかぎりで一人称的な個別性を保持しながら)、他方では非人称のヴァーチュアルな「種の生命」に根を張った、両義的な媒介者…。フロイトが「エス」と名づけようとしたもの、それはわれわれが「自己」の名で呼んでいるアクチュアルなはたらきのことではなかったか。「エス」の避けがたい両義性は、それがそれ自体において、一人称の個別的な生のリアリティ(ただしそれは「リアリティ」として名指されたとたんに三人称化する)と、非人称の種的な生のヴァーチュアリティとの関係そのものであることを物語っている。(16頁)

ここに出てくる「アクチュアリティとヴァーチュアリティ」「一人称のリアリティと三人称のリアリティ」の組み合わせは、フェリックス・ガタリの『分裂分析的地図作成法』に出てくる「アクチャルなものとバーチャルなもの」「リアルなものと可能的なもの」という二組の対概念と相即している(のかどうか)。
序論には「個別化の原理」(自己を一人称的自我として成立させる原理)という言葉も出てくる。
これは『モデルニテ・バロック』の序章「レアリストの語法」に出てきた「このもの性」に結びついていく。
そもそも木村敏さんの「ヴァーチュアリティ」と「リアリティ」の概念を知ったのは、『善の研究』(哲学書房)の解題の中で山内志朗さんが紹介していたのを読んだからだ。
意識の生成をめぐる心脳問題と西欧中世の神学的論争(普遍論争)とが結びついていく(のかどうか)。