『魂を漁る女』

この週はほとんど本が読めず、『神々の沈黙』『モデルニテ・バロック』『関係としての自己』などをとっかえひっかえ眺めてはそれぞれほんの数頁進んだだけ。
(『関係としての自己』の89頁に「クオリアは、一定の機構を備えてさえいればだれにでも観測可能なリアリティではなく、個人と世界のあいだにそのつど新たに成立するアクチュアリティである」という文章が出てくる。
この個人と世界の「界面現象」としてのクオリアというアイデアはとても刺激的でちょっと興奮した。)
それでも『魂を漁る女』を読了。久々に長編小説を読む悦びを味わった。
結末を読み急ぎたい気持ちを宥めるのに難渋した。
ドラコミラとアニッタ、この二人の対照的な女性をめぐるツェジムとソルテュクの(古代的と形容したくなる錯綜した)三角関係は、どこかゲーテの『親和力』に出てくる二組の男女の(古典的な形式美を漂わせた)交差恋愛劇を連想させる。
といっても『親和力』はまだ読んでいないので、たぶんそれは、「ゲーテの『親和力』」(これも未読)のベンヤミンをめぐる数冊の書物(たとえば川村二郎『アレゴリーの織物』とか三島憲一ベンヤミン』とかメニングハウス『敷居学』とか今村仁司『貨幣とは何だろうか』など)を介して、『魂を漁る女』を『神の母親』とともに「マゾッホの最も美しい小説」にかぞえあげたジル・ドゥルーズ(『マゾッホとサド』122頁)にリンクを張りたいという無意識の願望がしかけた連想だろうと思う。
実は、前々からチャールズ・サンダーズ・パースとヴァルター・ベンヤミンジル・ドゥルーズを三位一体的に組み合わせて一望してみたいという思いがあった。
パースとドゥルーズはもともと『シネマ』でつながっている。
パースとベンヤミンの「影響関係」は坂部恵さんの『モデルニテ・バロック』で示唆されている。
そこでも言及されていたドゥンス・スコトゥスライプニッツにまで遡れば、パース=ベンヤミンドゥルーズはきっと一つの思考の平面(内在平面?)に並置されるだろうという予感があった。
(実際、これまで読んだ本では山内志朗さんの『天使の記号学』にドゥンス・スコトゥスライプニッツとともにこの三人が揃い踏みで登場している。)
ベンヤミンドゥルーズマゾッホカフカでつながるかもしれない。
『変身』の主人公グレゴール・ザムザ Gregor Samsaマゾッホに捧げられたオマージュである。
グレゴールは『毛皮を着たヴィーナス』で主人公がワンダから授けられた奴隷名であり、ザムザはザッヘル・マゾッホ Sacher-Masoch のアナグラムである。
この説はドゥルーズが紹介している(「マゾッホを再び紹介する」,『批評と臨床』117頁)。
面白い。