『現代小説のレッスン』

石川忠司『現代小説のレッスン』読了(再読)。
この本は、圧倒的に細部が面白い。
村上龍=ガイドの文学とか保坂和志=村の寄り合い小説とか村上春樹ノワールといった作家論も新鮮だが、なにより個々の作品に切り込んでいく批評の切っ先が実にイキがよくて鋭く「ナイス」なのだ。
一例を挙げると、保坂和志の『プレーンソング』に「子猫とぼく」が一秒か二秒のあいだ見つめ合う場面が出てくる。
そこに「心の通い合い」を想定するのはいかにも感傷的=「文学」的な思い込みに過ぎないが、しかし見つめ合うことで「そこに物質的な視線の接触・交差が起こったということは、やはりひどく貴重な何事かではないのか」。
ここから著者は「保坂和志の小説とは以上のごとき物質的コミュニケーションが感動的に横溢する空間にほかならない」と規定していく。
このあたりの筆の運びには、保坂和志の小説世界に身をもって惑溺したことのある者なら間違いなく快哉をあげるだろう。
誰もがそう思いそう感じていたのに言葉でそうと表現されるまでは誰もそのことに気づかなかったある思考、感覚の実質が見事に言い当てられている。
それこそ批評の力というものだ。
しかしそのような批評は鮮やかであればあるほど危うい。
それはある具体的な対象に即して書かれた地域限定・期間限定の消費物である。
そこから何か普遍的で応用可能な理論や一般的な法則のようなものを導き出すことはできない。
できなくはないが、そうやって肥大化した批評はたぶんきっと「かったるい」。
本書はあくまで「コラム集」なのだ。
一瞬の鮮やかな輝きを放って潔く消えていく、そのようなコラムに徹すること。
コラムとコラムを(共同性なき共同作業=「物質的コミュニケーション」を介して)一つの結構をもった書物のうちにつないでみせること。
それこそが本書の魅力のほとんどすべてなのである。
プロローグで示される本書の見通しはいかにも借り物めいていて貧弱だ。
著者によると、物語(話し言葉)の豊饒に拮抗するため近代小説(書き言葉)は「描写」「思弁的考察」「内言」といった物語とは異なる言葉の位相を開発したが、その洗練・昇華はては過剰な増殖によって小説は窒息し「かったるく」なった。
現代小説は「活字でありつつ物語の豊かさを目指す方向性」すなわち「エンタテインメント化」をめざしている。
しかし、そもそもそこで言われる近代小説の実質が曖昧で、だから著者は最終章の後半になって(村上春樹をめぐる「大きな物語」論と阿部和重をめぐる「ペラい日本語」論という長大な「伏線」を張った上で)「本格小説」や「私小説」はては「資本主義小説」をめぐる議論を持ち出して帳尻を合わせようとする。
著者は至るところで後付けの理論を繰り出し、その結果プロローグで予告された本書の構成(体系)は破綻する。
だが、それらは欠陥でも欠点でもない。
くどいようだが本書の魅力は細部(コラム)の輝きにこそある。
理論や体系や小説観といった大括りの議論は粉々に砕け散って、具体的な小説世界という「物」に即したその場その時の思いつきやひらめきや創造的な発見の歓びのうちに生き生きと息づいている。
いや、むしろそのような抽象的で普遍的で一般的な概念や観念や体系といった意匠が立ち上がる現場こそが批評=コラムなのだ。
著者がプロローグで与えた(理論的かつ体系的な)見通しは、だから一冊の完結した書物を夢想しての余分なお化粧などではなくて、いわば「現代批評のエンタテインメント化」宣言なのである。


阿部和重をめぐる「ペラい日本語」論、あるいは話し言葉(物語)と書き言葉(近代文学)に関連して、加藤典洋『僕が批評家になったわけ』の一節を思い出したので書いておく。
あるとき、本居宣長荻生徂徠を読んでいてとても気持がよかった。
その譬えとか、物の言い方が実に過不足がないという気がしたからだ。

ここで筆者の直観をいうと、日本のことばは明治になった後、まだ平静を取り戻していない。ということはまだ平熱を回復していない。(略)というか、日本のことばはその平熱を求めて、さまざまに運動を繰り返してきたのではないだろうか。それは明治以降、たとえば現代の日本のことばの名文家などといわれている人のことばを考えると、とても平熱とは思えないので、そう思うのである。日本のことばは完成していない。というよりも、そもそも、ことばというものが、完成しえないもので、それがことばの力なのかもしれない。(加藤典洋『僕が批評家になったわけ』188-189頁)