『僕が批評家になったわけ』

加藤典洋『僕が批評家になったわけ』読了。
批評とは何か。それは日々の生きる体験のなかで自由に、自分の力だけでゼロから考えていくことだ。
本を一冊も読んでなくても、百冊読んだ相手とサシで勝負ができること。
批評とはそういう言語のゲームなのである。
だから批評はどこにでもある。
「あることばを読んで、面白いと感じること。それはそのことばのなかに酵母のように存在している批評の素に感応することなのだ」。
こうして著者は批評の原型としての、批評の酵母に関する「みごとな見本帖」としての『徒然草』にいきあたる。
小林秀雄が「純粋で鋭敏な点で、空前の批評家の魂が出現した文学史上の大きな事件なのである」と絶賛したように、『徒然草』には「公衆、世間、一般読者」という「スクリーン」の出現とともに成立した近代批評(重く難しいことばで書かれた文学としての批評)の極北をなす「ムッシュー・テスト」(ヴァレリー)の「無名」への夢に通じるところがある。
著者はこのことを確認した上で、『徒然草』が導くもう一つの夢を粗描してみせる。
それは「ふつうのことをふつうにいう」こと、あるいは「わからない、わからなかったということを書く」こと、つまり「平明な批評のことばの果て」にある未来の批評である。
ここで著者はインターネットに代表される「電子の言葉」が生み出した新しい批評の書き手、内田樹を引き合いに出す。
徒然草』序段と『ためらいの倫理学』のあとがきは似ている。
それらはいずれも「書き言葉」と「話し言葉」という二つの力のせめぎあいのなかから「自由に書きたい、自由に考えたい」という欲求を通じて生み出されていったものだ。
漢字とひらがなの「和漢混淆文」とともに、あるいは(机の上の「スクリーン」にのみ存在する書き言葉であり、セーブしなければ消えてしまう話し言葉の要素をも濃厚に合わせもつ)「書き言葉=話し言葉」的な新しいメディア=電子エクリチュールとともに。
そもそもことばは分裂をかかえている。
養老孟司は『唯脳論』で言語の本質は視覚・知覚系(文字記号)と聴覚・運動系(音声)という本来無関係な二つの刺激が連合したものだと書いた。
つまり言語は「難しいとか重いという以前に、平明なままで、すでにダイナミックな運動としてある存在」なのである。
批評もまた二つ力のせめぎあいのなかで営まれる。
著者は平明さの基礎は何かをめぐる終章で、内田樹レヴィナスとの「対決と和解」(?)をまじえながら、平明と難解、野生と純粋、世間と世界、等々の二つの力の中間にあるものとしての「平明な批評」のあり方を語っている。

批評の一番奥底にはこの世間のうごめきがある。頭上には世界がある。地上には世間がある。批評はすぐれた思考であろうとこの世間の風とせめぎあい、その中間に、噴水の上のゴムマリのように浮かんでいる。(略)何かが中空に浮かび、とどまる。知識の量、頭脳の明晰さ、着眼の面白さに還元されないものが、そこにある。すぐれた批評に接したと感じるとき、私たちは、他なる思考の泳者がたしかに私たちのなかの世間にしっかりとタッチして、私たちをその世間的思考から彼岸まで連れて行き、さらに私たちのなかの世界にタッチした後、もう一度、世間の場所に連れ帰るのを、感じているのである。

批評はなぜ平明でなければならないか。
「それは批評が、誰もが、いつ、どのような出発点からも、どんなルールででも、参加できるものでなければ、死んでしまう、ゲームだからなのである」。
本書はそのような(来るべき)批評の酵母の見本帖、すなわち加藤版「徒然草」である。