『シネマと書店とスタジアム』

今日から土日を含めて五連休。有馬温泉で一泊するだけのささやかな夏休み。
有馬への小旅行の道連れに、沢木耕太郎『シネマと書店とスタジアム』と保坂和志『小説の自由』と昨日買った野矢茂樹『他者の声 実在の声』を持っていった。
結局読めるのは沢木本だけだろうと思っていたら、結果は予想通りになった。


映画評(「銀の森へ」)と書評(「いつだって本はある」)、それから長野オリンピック(「冬のサーカス」)と日韓ワールドカップ(「ピッチのざわめき」)の観戦記を集めた沢木本は一気に読み切ってしまうのが惜しくて、折にふれ読み返したりしながらここ一月ばかり「愛用」している。
筆運びが達者で文体がきまっていていかにも「プロ」の文章だと思う。
対象との距離感覚、状況の中での書き手の位置の取り方が経験によってのみ鍛錬され熟成する「技術」を感じさせる。
是枝裕和の『ディスタンス』を取り上げた文章の中で、沢木耕太郎は演技における「虚」と「実」の関係を論じている。
この映画の多くの場面で是枝監督は、俳優に状況と大まかな方向を与えられるだけであとはその内発性に委ねるという演出法を採った。
その結果、俳優の演技は一見「自然」で「リアル」なものとなったが、前作の『ワンダフルライフ』で七十年分の時間の重さと厚みに支えられた老女の思い出話が虚構の部分を圧倒したほどの力は持ち得なかった。
「そこには見せかけのリアルさを必要としない内実があった。だが、『ディスタンス』の俳優たちの「リアル」な台詞には、その重みと厚みが決定的に欠けていた」(62-63頁)。
沢木耕太郎は「実」は実であるがゆえに「虚」を圧倒する力をもっているといった軽率な主張をしているわけではない。
ここにあるのはプロによるプロの仕事に対する(リスペクトに裏打ちされた)批評である。
「私には、演技という「虚」なるものにおける「実」の導入の仕方において、是枝に微妙な計算違いがあったように思われるのだ」。
プロはまた己の仕事を知り抜いている。
虚と実、アクションとリアクション、記憶と記録。
それらが拮抗する状況に身を置き「微妙な計算」をもって自らの立ち位置を定め対象との距離を測り言葉を紡ぎ出すこと。
沢木耕太郎ローレンス・ブロックの『倒錯の舞踏』を取り上げた文章の中で、ハードボイルド小説の根幹は「アクション」ではなくアクションによって引き起こされた「状況」への「リアクション」だと書いている(121頁)。
またデヴィッド・ハルバースタムの『男たちの大リーグ』の書評では、スポーツ・ライティングの基本は「記憶」にあると書いている。
「「記憶」は「記録」をともなって再構成されるが、その「記憶」が人間によってなされるものであるかぎり、作品が「人間の物語」と無縁でいられるわけがない」(111-112頁)。


まだ半分しか読んでいない本のことを持ち上げすぎている。
(己の仕事を知り抜いているプロの文章には安心して身を委ねることができる。
読者もまた「微妙な計算」をもってわれを忘れることができる。
でも「われを忘れる」ことと「われを解体する」こととは別の次元の話で、だからここに書いたことは沢木耕太郎を持ち上げたことにはならないのかもしれない。
じっさい『シネマと書店とスタジアム』に書かれていること、とりわけスポーツ観戦記には得心がいかないところが多い。)
「持ち上げ」ついでに書いておくと、平井啓之さんがドゥルーズ『差異について』の解題「〈差異〉と新しいものの生産」に書いていること──たとえば「一本の小灌木を個物として成立たせるものは、その個物の質である。しかし〈差異〉とは関係の用語であり、…その関係とは、個物相互の質の関係に外ならない」(138頁)とか、「文学のディスクールとは何ものにも勝った〈差異〉の産出の特権的な場所」である(153頁)とか、「「自己との間に差異を生ずるもの」としての、差異の生産の世界」=映画の世界像(161頁)、等々──を読んで『シネマと書店とスタジアム』を想起した。
文学と映画、それにサッカーを加えるならば、私にとっての「差異の生産の世界」が三つそろう。
(このあたりのことは『物質と記憶』の熟読玩味を通じて考えていこう。)