『小説の自由』

保坂和志の『小説の自由』に次の文章が出てくる。

小説でも哲学書でも、それを楽しんだり理解したりするために、読んでいるあいだにいろいろなことを自然と思い出したり強引に思い出したりしているもので、読み終わるとそれの何分の一かしか残っていない。それらをすべて忘れずにいられたら私たちはすごいことになっているだろう。(92頁)

ほんとうに「すごいこと」になっているだろう。
この日記でやりたいと思っているのはその「何分の一」かの割合を少しでも大きくすることなのだが、忘れないようにするためには書かなければならず、そうするとしだいに書くために読むということになって「読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能性が考えられる」(74頁)。
じっさい「読みながら現前していることへの注意が弱くなる」と、書くことの方に向かって注意が集中して最後にはその読んでいる当の書物を投げ出してしまうことにもなりかねない。
もちろん投げ出したって構わない。
読み続けなければならない義務も責任も筋合いもないわけだからそれも読書の一つのかたちだとは思う。


ところで、いま引用した「読みながら現前していることへの注意が弱くなる可能性が考えられる」という文章が出てくるのは「4 表現、現前するもの」の「文字に物質性はない」という節で、そこで保坂和志が語っている「現前性」は本書全体のキーワードなのではないかと思う。
「小説における表現=現前性とは…視覚の運動(広く「感覚の運動」)をともなう、文章に込められた要素の量に関わる」ものであって、「文字によって抽象として入力された言葉が読み手の視覚や聴覚を運動させるときにはじめて現前性が起こる」。
「何よりもまず現前していることが小説であって」、「だから小説は読んでいる時間の中にしかない」。
「音楽は音であり、絵は色と線の集合であって、どちらも言葉とははっきりと別の物質だから、みんな音楽や絵を言葉で伝えられないことを了解しているけれど、小説もまた読みながら感覚が運動する現前性なのだから言葉で伝えることはできない」。
この『小説の自由』73頁から74頁にかけて書かれているのはとても大切なことで、ここから「物質性」「表現=現前性」「テーマ・意味」の三項を抽出して茂木健一郎の「脳内現象」の説と関連させたり、あるいは次の文章で指摘されている事柄と関連させてみると面白い(かもしれない)。

スピノザの議論の核心は単純である。心的なものと、身体または脳のある状態の関係は、いずれの方向でも因果関係ではなく、シニフィエ(意味内容)とシニフィアン(記号表現)の関係である。つまり、身体の状態は、心的なものを表現するシニフィアンの役割をはたしているのである。因果関係は、外的世界の出来事と身体の状態の変化の間に存在しているだけである。心的なものはシニフィエであるから、特定の心的状態(ないし意味[シニフィエ])が、はじめから身体の特定の状態(シニフィアン)によって、一義的に決まっているようなものではなく、他のシニフィアン全体との関係のなかで全体論的に意味をもち、全体論的に解読されねばならない。感官に対する物理的刺激およびそれによって励起された神経興奮は、それ自身単独で一つの意識を生み出すわけではないのである。(田島正樹スピノザという暗号』173-174頁)


現前性で思い出した。
加藤典洋『僕が批評家になったわけ』に小林秀雄岡潔の対談『人間の建設』を取り上げた箇所がある(93-97頁)。
小林が「数学のいろいろな式の世界や数の世界を、言葉に直すことはどうしてできないのでしょう」と問う。
岡は最初、いや数学も言葉なのだと応じるが、「小林の質問がアインシュタインベルグソンの論争にふれると、これがもっと遠い射程をもつ問いであることに気づく」。
そして「数学は知性の世界だけに存在しえないということが、四千年以上も数学をしてきて…はじめてわかった」、つまり数学をつきつめていったら数学とことばが違うことがわかったと答える。


岡「矛盾がないということを説得するためには、感情が納得してくれなければだめなんで、知性が説得しても無力なんです。ところがいまの数学でできることは知性を説得することだけなんです」。
小林「わかりました。そうすると、岡さんの数学の世界というものは、感情が土台の数学ですね」。
岡「そうなんです」。


加藤典洋はここで小林が「感情」といっているものは「現前」、つまり「ありありと現れていること」(=「ありありと心に感じる」こと=「実感するということ」=「わかる」こと=「納得する」こと)と同義だと書いている。
そしてデリダ(『声と現象』)の「現前の形而上学」批判をもちだし、「批評は「わかる」ことの上に立つのか。「わかる」ことの切断の上に立つのか。難しい問題がまさに、口を開こうとしているのである」と結んでいる。